
コリント人への手紙第一14章20節
「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」
「子どもっぽい」という言葉と、「子どものような」という言葉は、似ているようですが異なる意味を持っています。子どもっぽいという言葉には、大人であるのに成長していない、成熟していないというネガティブな意味が込められています。一方のこどものようなという言葉は、子どものように純粋無垢、天真爛漫であるというポジティブな意味で使われることが多いですね。この事から分かるように、子どもには良いイメージと悪いイメージの両方がついて回ります。
今日の第一コリント14章にはまさに、子どもについてのこの両方のイメージが語られています。パウロは、考え方においては子どものようであってはいけませんが、悪事においては子どものようでありなさい。と指摘しました。教会に来ている子どもたちを見ていると、とても素直にお話を聞き、素直に心に受け入れ、理解をすることが分かります。イエスご自身、マタイの福音書18章2節で「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と言われ、子どものように素直な信仰を持つことの大切さを教えられました。
このような素直で純粋な信仰はいつになっても持ち続ける必要がありますが、一方で、信仰には成長が必要です。パウロはこの第一コリント14章で、異言や預言など、いわゆる霊の賜物について扱っています。これは、その前の13章で愛こそが最も大切であるということを前提に話している事を理解する必要があります。コリントの教会は、霊の賜物を熱心に求め、それを得ていましたが、その用い方について混乱がありました。教会の中で思い思いに異言や預言を語る人たちがいて、その様子が13章1-2節に書いたように、やかましいどらやシンバルのように聞こえたのだと思われます。
14章全体を読むと、パウロは決して異言や預言そのものを否定してはいません。ただ秩序正しく用いるようにと注意を促しているのです。ですから、26節では「そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」と語り、33節では「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」と語っています。この後の聖句では、女性が教会で語ることについて禁止する驚くべき内容が続きます。現代の教会でこれをそのまま適用すると問題になりそうです。しかし、これもやはり、当時集会中に騒がしくして風紀を乱す女性たちがいたことを背景にしています。パウロのポイントは、異言や預言の否定でも、女性たちのおしゃべりの禁止でもありません。40節に「ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」とあるように、集会における秩序の維持と、成熟した大人としての行動を促すものだということです。子どものような純粋さと素直をいつまでも忘れることなく、信仰がますます成長し、知的にも霊的にも成熟したクリスチャンになるよう、神さまに祈り求めていきましょう。