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■ 佐賀の戦国史 ■
佐賀戦国研究会 
3 episodes
3 hours ago
★第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ―高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像―★北九州市小倉にて、2019.6/23開催!
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★第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ―高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像―★北九州市小倉にて、2019.6/23開催!
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Episodes (3/3)
■ 佐賀の戦国史 ■
【お申込期限は9/22まで】「戦史学者 長南政義先生と巡る 佐賀の乱戦跡ツアー」(2023年10月 全旅佐賀バスツアー)
2月26日に、講演会「軍事学的にみる佐賀の乱」を佐賀大学にて開催しました。 →(レポート)http://sagasengoku.seesaa.net/article/498448071.html saganoran230226_豎コ螳・024_1.jpg そして・・・、この関連企画として、10月に2回、 地元の旅行会社・㈱全旅佐賀さんと佐賀戦国研究会の共同企画、 ★「戦史学者 長南政義先生と巡る 佐賀の乱戦跡ツアー」を催行します! (追記:お申込期限は、9月22日までとなります。) ↓<告知チラシ>クリックすると拡大します。 バスツアー1.jpg バスツアー2.jpg ★申込書(チラシ)PDF 戦史学者 長南政義先生と巡る 佐賀の乱戦跡ツアー.pdf ★講師 長南政義先生 略歴: 國學院大學法学部卒業。國學院大學法学研究科博士課程前期(法学修士)及び拓殖大学大学院国際協力学研究科安全保障学専攻(安全保障学修士)修了。國學院大學法学研究科博士課程後期単位取得退学。政策研究大学院大学COEオーラルヒストリー・プロジェクト・研究アシスタント、国会図書館調査及び立法考査局非常勤職員、靖國神社靖國偕行文庫など勤務経歴。 防衛省防衛研究所研究会講師(2017年)、防衛大学校部外講師(2018年)として児玉源太郎をテーマとした講義・講演を行った他、熊本市主催の講演会や、桜美林大学で講師を務めた。 長南先生は学術論文の他、著書に『新史料による日露戦争陸戦史 ―覆される通説―』(並木書房、2015年6月)、『児玉源太郎』(作品社、2019年6月)、『新説戦乱の日本史』(SB新書・共著、2021年8月)などがあり、佐賀の乱については、歴史雑誌『忘却の日本史』(第6号・7号)や『歴史群像』(第163号・164号)において、官軍・佐賀軍の衝突経緯と経過を軍事的・戦史的視点で詳細に解説されており、その内容の精緻さに、地元の歴史ファンからも多く感動の声が上りました。 参考用:★【開催】講演会「軍事学的にみる佐賀の乱」(2023.2/26) このバスツアーは、長南先生が本当に同行・解説までして頂けるという、なんとも貴重な会です。ぜひお楽しみに! 軍事学的な視点から詳しい解説が聴けますが、観光バス旅行としての要素も、バランスよく含まれています。 遠方からのご参加も、地元からのご参加も、楽しめる佐賀の史跡めぐり旅行です。 全国旅行支援適用で、商品クーポン券が千円分付いています。1ツアーが先着30名程。ぜひご参加下さい! (参加お申込は、全旅佐賀へお願いします。) しばらく、佐賀戦国研究会の告知枠を優先に、予約を受けてくれるそうです。 WEBやLINEで告知を始めましたが、8/1本日、常連様方へ封書DMも一斉発送しました。席数に限りがある事ですので、届きましたら早めにご確認お願いします。 当会告知の先行申込の一定期間後、全旅佐賀さんが企業として一般募集を開始されます。 前回、全旅佐賀さんが実施された「龍造寺鍋島バスツアー」が満席で参加できなかった・・という方々を含め、 みなさま参加枠の予約はお早目に! —————————————————————————— 佐賀戦国研究会の皆さま 「長南政義先生と巡る佐賀の乱戦跡ツアー」予約のご案内 拝啓  盛夏の候、皆様にはますますご健勝のこととお喜び申し上げます。 このたび佐賀戦国研究会×全旅佐賀コラボ企画ツアーとして、「長南政義先生と巡る佐賀の乱戦跡ツアー」を10月7(土)、10月14日(土)2回企画しております。 長南政義先生は今年2月26日佐賀大学で「軍事学的にみる佐賀の乱」についてご講演をいただきまして、今回ツアーにもご協力いただけることとなりました。 ツアーの詳細・募集開始は、募集開始になりましたら佐賀戦国研究会のTwitterやブログ、全旅佐賀ホームページでご案内いたしますので、ご検討の程お願い申し上げます。                               敬具 記 ■開催日:2023年 10月7日(土)・10月14日(土)日帰り  ■概要 戦史学者 長南政義先生と佐賀の乱の戦跡を巡るバスツアーとなります。佐賀の乱の激戦地「佐賀城」や「鳥栖朝日山」、官軍墓地「乾亨院」等を巡ります。 ■旅行代金:8,000円          (全国旅行支援適用、商品クーポン券 1,000円分がつきます。) 申込先:株式会社 全旅佐賀 HP:https://zenryosaga.com zennr.png ツアーに関するお問い合わせ・申込みは株式会社全旅佐賀へ TEL 0952-34-2602 FAX 0952-34-2605 MAIL antasaga@star.saganet.ne.jp バスツアー1.jpg バスツアー2.jpg 杏葉紋旗(佐賀城本丸歴史館・御玄関前).png
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2 years ago

■ 佐賀の戦国史 ■
【まとめ】嬉野の忍者・佐賀の忍者と調査事業について
最近、全国メディアやローカルメディアから「佐賀に忍者がいた事を知りましたが」「どういう内容ですか?」「どういう発見ですか?」というようなお問合せが複数有り、世間は本当に忍者ブームなのだなと実感しています。 ただ、金銭的仕事ではなく問合せに応じるのみなので、複数社こられて期限付きの回答を求められると、さすがに負担を感じます。 公共に資する内容であるため、できるだけ誠実かつ遅滞のない様に回答していく方針です。しかし、よくある問合せに対しましては、以下の【まとめ】を参照して頂きますよう、お願い致します。 (メールでも、まずはこちらを参照頂くよう、返信する方針です。) ★前提 【忍者の定義・忍者とは】  情報収集が主たる任務。間牒、間者、スパイ。工作員。忍術を使用する者。 日葡辞書 「Xinobi」の用例「Xinobiuo suru」により、“忍びをする”者。 忍の仕事は、忍び “が” するもの(専任)とは限らず、忍び “を”する者が忍者と考える。 ※吉丸雄哉先生からの御教示によれば、戦国期の臨時の任務 → 江戸時代の組織編成された職業へ変遷。厳密には、時代によって定義は変わると考えられる。 【忍術とは】 総合的知識に基づくサバイバル術。 山田雄司先生の定義 に基づく。「忍術書には、心構え、侵入術、破壊術、武術、変装術、交際術、対話術、記憶術、伝達術、呪術、医学、薬学、食物、天文、気象、遁甲(とんこう)、火薬など多様な記述がなされている。何事にも耐え忍び、人間の気質や自然環境、社会環境を掌握する(術)」。 ———————————————— ★佐賀戦国研究会とは: http://sagasengoku.seesaa.net/article/459492959.html 【まとめ】(2017年~2019年) CCI_000069.jpg ★忍者研究の専門家、三重大学教授 山田雄司教授に認定された、 「嬉野市に実在した忍者」とは。(3名) ・彦山八天狗 弁慶夢想 【タイ捨流の剣術そして忍法を極めた山伏】 基本は肥後相良藩所属、一定時期嬉野(塩田)に滞在。 ・田原安右衛門良重 【細作】 蓮池藩から島原藩内へ密偵として派遣された。その後、塩田役所長官へ出世。    ・古賀源太夫 【聞合方御用】外国船が長崎に来航した時に、2度、情報探索を命じられ、長崎へ派遣されている。 第二回国際忍者学会『佐賀藩における忍者』(2018.9/8) ↑第二回国際忍者学会 基調講演「佐賀藩における忍者」 深川直也(佐賀戦国研究会)/ 佐賀の歴史と忍者について、基調講演の内容です。31分程。 International Ninja Research Association” convention. https://intlninja.com/ 日時 :2018年9月8日(土)~9日(日) 場所: 佐賀県嬉野市公会堂 (嬉野市) 主催 :国際忍者学会、特定非営利活動法人九州忍者保存協会 共催: 日本忍者協議会、三重大学国際忍者研究センター 後援 :佐賀県、嬉野市、佐賀新聞社、NHK佐賀放送局、サガテレビ、NBCラジオ佐賀、エフエム佐賀、肥前夢街道 ★Yahooニュースにまでなった「佐賀には忍者が14人いた!」について。 正確には「先年まで忍者情報が判然としなかった佐賀県において、嬉野市の忍者発掘事業を契機に、忍やそれに類する者の史料情報が14名分提示できるまでになった。」という論旨の発表が大げさな報道見出しになってしまったものです。 ★正確な論旨はこちらをご参照下さい: 三重大学 人文学部・人文社会科学研究科公式HP(深川発表要旨)http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2019/2019-2.html ここまで分かった佐賀の忍者史(佐賀戦国研究会講演会) ↑佐賀戦国研究会特別出張公演「ここまで分かった佐賀の忍者史」(約75分) 日時:令和元年7月15日(月/祝) 会場:嬉野温泉 入船荘 主催:特定非営利活動法人 九州忍者保存協会 共催:佐賀戦国研究会 後援:リタジャパン ※レジュメを全体公開しますので、必要な方はダウンロードをお願いします。 原文のほとんどや、典拠情報が全て収載です。↓ (修整版)5月18日(佐賀・深川レジュメ).pdf レジュメ内容: 【1】「間者」・無名 / 龍造寺隆信配下。離間計の遂行者。天文22年8月  「伝に曰く、此時神代方へは隆信と小田、江上と内通有て神代を倒さんとすべき術也と。拵へ又小田、江上へは神代と隆信と内通有て小田、江上を計らるべき術ありと。出家商父の雑説交々有し故、互に心を置き合て隆信帰城の時此三家出勢なく、隆信輙(たやす)く城に入しと也。若し神代、江上、八戸、高木、小田一致して戦はば、今度の帰城叶ふ間敷を。隆信之を了簡せられ間者を以て斯く所々に雑説を云はせられし也。是れ能き謀なり勝利公も後に称美し玉ひける。」 (『神代家伝記』) 【2】「間者」「内間」・小副川左衛門 / 神代勝利配下。天文22年8月~天文24年8月までの間 「(神代勝利は)小副川何某と云ふ者に心を合せ態と科を設け、勘当して佐賀へ内聞(※おそらく内間の翻刻誤り)の為めに出だされけり。此者隆信を頼むの色を見ずして勤仕しければ、隆信山内へ案内の為め常に懇ろを加はれ所領を給りけり。此者の内外に付能く伺ひ、密符を以て勝利公へ時々告ける故、毎度隆信の術に落ち玉はず。(中略、その後、龍造寺隆信による神代勝利への不意討ち作戦の際、)今度は隆信の不意なる術なる故に、内間之を知らず告げざりしかば(神代勝利の城は落城した。)」 (『神代家伝記』) (『葉隠聞書 第六』 に同様の記述あり、間者と書かれている。) 【3】「草履取り」・無名(見事な七方出)/ 神代長良(勝利の継嗣)配下。永禄8年8月中旬 「茲に又長良公の御草履取何某と言ふ者、偽りて狂気となり、様を変え山内を巡り戯言を云ひ囃し、或は人形を舞はしめ又は猿を使ひ、常に三瀬の城辺に至て窺ひける。彼の城番も之を呼びて様々に嬲(なぶ)り翫(もてあそ)ぶこと度々に及び、後には心安く城に出入りしけるが、或時城番油断しける隙を能く見澄まし、急ぎ駈返り近所に有合う味方の浪人共へ告げたりしかば、即時に藤原山の内、西川寄合原に会合し、密かに会議を凝らし、草履取を城中に忍び入らせ、火を放たしむ。味方の浪人共之を見て、一度に鯨波を作りて押寄せ散々に攻め掛かる。城番は不意の事なれば防ぐべき様もなく、」 (『神代家伝記』) 【4】「斥候」・無名 /鍋島直茂配下。元亀元年8月 「或はいふ、此時信生(鍋島直茂)、宵より今山の(大友)八郎が陣へ斥候を遣しけるに、走り帰りて告げるは、豊後衆、明日は城乗とて大将も士卒も首途の祝、上下酒宴し、夜討などの事は努々思寄らず候、弥々御勢を急がるべしと申す。依りて信生、弥々力を得られしとなり。此斥候の士、成松刑部大輔とも、又秀島源兵衛が与力合満何某といふ者なりとも。」 (『北肥戦誌』巻之十九)  P.61~P.62 【5】「間牒」・無名 /鍋島直茂配下。肥前国杵島郡・須古城攻め、天正2年3月 「攻伐不自由、横辺田滞在弥月、鍋島氏通間牒於平井直秀、」 (『泰巌公御年譜』) 【6】「肥前の坊さん」(剣術指導・安楽平城)/神代長良配下か。天正7年3月~9月頃 ※口伝 ・福岡市早良区脇山の古老・吉岡氏が語った口伝。肥前の坊さんが安楽平城主の嫡男、小田部九郎に剣術を教えにきていた。その内、諜報を目的に来るようになり、長らく籠城を続ける安楽平城の水の供給源を把握し、龍造寺方へ伝えた。龍造寺軍は池田の山伏を案内役に、城の水の手を急襲・破壊し、以後の籠城を困難にさせた。 /『安楽平城物語』 (その3)P.31~P.32 (1979年5/27の記事とあり) 著者はこの坊さんについて、密偵に任じられた者ではないかという旨を指摘している。(P.34) 【7】「忍」・無名 / 鍋島直茂配下。天正7年(1579)3月下旬 「(小代)宗全は是を聞大に怒り、同名越前守と長臣荒尾摂津守家経に人数二千を副へ、芥田神と云所迄押寄る。(鍋島)直茂公兼て梅尾に忍を被入置者走り来り、此由り告るに依て、伏兵を被起、越前守を木下四郎兵衛討捕けり。荒尾は辛々遁れ、梅尾に引返す。直茂公の御勢、梅尾迄押詰、町小路に火を掛る。於爰宗全先非を悔降参す。是肥後衆御手に入初也。」 (『隆信公御年譜』) 【8】「忍」・無名 /空閑三河守光家(可清入道)配下。忍衆を組織していた? 天正8年6月下旬 「此空閑三河守、于時入道号可清、六百町を領し中佐嘉の内、渕に在城す、常に忍びの上手を多く抱置、盗乱妨を指免して、無扶持に召仕し者也、其故に此時も、彼家人一番に城中へ忍び入り、大将小佐井を生捕りけると也、」 『直茂公譜』(三) 空閑三河守は龍造寺隆信の重臣(知行5千石程)で、度々武功を挙げ、隆信の信頼も厚かった。 【9】「茶売」・無名 / 筑紫広門配下(たまこ火のスキル) 天正11年3月7日 「天正拾壹年癸寅(未)三月七日之夜、甲待(庚申待)之時、筑紫家より為策略、茶売を仕立候而、岩屋に登せ申候、虚空蔵台より茶を売下、人目をはからひ、家の作相々にたまこ火をなげすてて大手迠、茶売体に而下候而、其儘武蔵城之ごとく走入候、如此たまこ火仕廻候てより、帆足弾正方へ申候へば、則(筑紫)広門へ忠進申候へば、覚悟仕候人数打立候へと觸申候間、はや暮に成申候、然ば彼なげ火所々より焼立申候間、先焼申候所をけし二人数寄候へば、そこも焼ここも焼あわて申候間、夜半程岩屋之家一ツも不残焼落申候所に、筑紫衆乗取為可申、観世音寺辺迠人数を寄せ候へ共、宝満之衆かけ付被申候間、焼落申計に而引取申候、此由立花には八日朝巳ノ刻計に相聞へ申候間、」 /『豊前覚書』 城戸清種 著、元和元年(1615)2月成立。信頼できる貴重な史料と評される。/『博多・筑前史料豊前覚書』城戸清種 著 川添昭二・福岡古文書を読む会 校訂 文献出版 発行(1980年9月)P.34 【10】「忍にて見積り」・吉武弥右衛門 / 多久安順の陪臣(田代組の組子) 慶長5年8月中旬 「某共先祖吉武弥右衛門儀、廿歳にて高麗陣江、天叟(多久安順)様致御供罷立候、其節田代二良左衛門与に被相付候、其時分は五拾人与にて御座候、其後伊勢陣に相立候、然時津城御当り被成候間、津城懸り場夜忍びにて見積、二良左衛門方へ被仰付候、与よりは右弥右衛門壱人相付候、城之間潮満川にて候間、某川之瀬蹈可仕とかけ渡り、城廻見届、塀之様子見候得ば弱御座候間罷帰候、二良左衛門へ城懸り場能、塀弱候条、此方より御懸り可然由申候得共、其方斗にては無覚束候と被申渡候て、見被申候得ば、弥右衛門見如申候御座候故、右段々様子御前に被仰上、其後二良左衛門手引にて、此方御一手無別条、城を御乗取被成候、一方よりは何之宰相殿とやらん御懸り被成候由、関原相澄、其後柳川陣に罷立、已後与不相替、只今迠代々御奉公申上候事」 /「田代長右衛門与 吉武六左衛門 吉武宇左衛門 吉武弥右衛門 (連署)」由緒差出 (元禄年間1688~1703年頃) 『水江臣記』巻第三 P.132 秀村 選三・細川章・多久古文書学校 編集校訂 文献出版発行(1986年11月) 【11】「忍之者」・無名  鍋島勝茂宛 細川忠利書状  (寛永14年)12月28日付 「一、原之城は人多と、我等は承候、其わけは新丸を二丸取出候由申候、人すくなにては左様には仕間敷候、もはや仕寄も近可有之候間、頃は様子も聞合申、おしこみ候共、事之外御人数損可申候、(闕字)上使之衆は如何御申付候哉、一、石火矢は内之かこい能候て、さのみ迷惑不仕由、承候、是又如何、一、城内へ忍之者など御入候事、定成かね可申候、但如何候、人数は何程内に御座候哉、落人など御座候はばしれ可申候、」 『細川忠利文書 十四』3901号 (寛永14年)12月28日付 細川忠利→鍋島勝茂(佐賀藩初代藩主)宛書状(『大日本近世史料』・東京大學史料編纂所編)  → 鍋島藩も忍之者を使役できた? 【12】「細作」・田原安右衛門良重 佐賀藩支藩・蓮池藩の侍 寛文7年 「寛文7年(1667)(中略)、是の年島原城主高力左近罪有り。国除かる。島原騒擾す。(鍋島直澄)公、田原安左衛門(安右衛門)をして細作となし島原に遣り、以て其の動静を探らしむ。安左衛門は才学有り。官塩田頭人に至り、嘗て蓮葉隠一部を著し後世に伝う。」 /『蓮池日史略』第一巻 安右衛門は鉄砲足軽組頭や細作を務め、最終的に嬉野塩田役所の長官という高い地位に昇りつめた。 【13】「忍法」・彦山八天狗 弁慶夢想(伝林坊頼慶) 嬉野市に滞在し、タイ捨流剣術を指導。 先行研究上、山伏かつ剣術家の「彦山八天狗 弁慶夢想」と、伝林坊頼慶(肥後相良藩所属)は同一人物とされている。ただし頼慶が丸目蔵人の直弟子であるので、元禄の伝林坊は世襲数代後の人か(兵法タイ捨流 師範 山本隆博先生曰)。 「タイ捨の一流、佛の勧行と共に修行すべし、忍法修業も同じ、秘事を守り日夜の修行也。」 ・「犬隠れの術」・「柴隠れの術」・「木の葉隠れの術」 「鎖の大事。ヒバカリ蛇を生きながら息を込めて黒焼きにして、成程粉にして持つべし。鉄鎖によし、身に付いても切れず、縄を腐らすによし、かたびらにも塗る也。」 「右の條々、忍の内、秘事なり。毛頭侘見・侘言これ有るまじきもの也。」 /『タイ捨流忍之内極意秘密之巻(写)』元禄2年3月 【14】「内密の御用」「聞合方」・古賀源太夫 幕末期蓮池藩の下級武士、生没年不明。 諜報活動:嘉永6年8月~安政3年4月、主に異国船渡来の事情を探る任務であった。安政2年正月時点での役職「御火術方」、安政2年6月時点での役職「御作事方」。 (一次史料『日記』及び『(蓮池藩)請役所日記』) —————————————————————— NHK(2020.1/30) 9分程ゲスト出演分です。 【限定公開】「ニュースただいま佐賀」NHK佐賀支局(2020.1/30) (限定閲覧のため埋め込み無効にしてありますが、「YOUTUBEでご覧ください」をクリックすれば見れます) ★調査事業参加のきっかけと経過。 2017年夏頃に、肥前夢街道忍者村から調査参加依頼を受け、佐賀戦国研究会代表深川が参加。以降、忍者村さん及び三重大学山田雄司教授と協働調査・研究を行う。 2018年2月までに、史料により田原安右衛門、弁慶夢想(伝林坊頼慶)、古賀源太夫を特定。公式発表。「嬉野に忍者はいた」 2018年9月8日 第二回 国際忍者学会(佐賀県嬉野市にて開催)基調講演にて、佐賀戦国研究会 深川が詳細を講演。 2019年5月・三重県伊賀市にて、7月・佐賀県嬉野市にて、忍者調査事業によって、忍者に関する14名のデータを発表。「佐賀県全体の忍者情報へアップデート」 2019年10/12~ 中冨記念くすり博物館(佐賀県鳥栖市)企画展「忍者とくすり展」入口前解説パネルにて、佐賀の忍者について掲示される。 2020年11/11 佐賀大学 芸術地域デザイン学部 オンライン講義 /「まさか!」の忍者学 外部講師 深川 直也(佐賀戦国研究会 代表)2020.11/11(水)1コマ90分 担当 2020年11/15 嘉穂忍者劇場 2020 (嘉穂劇場:福岡県飯塚市飯塚5-23)「新発見の報告 -佐賀蓮池藩史料と新たな”忍ノ者”」 佐賀戦国研究会 深川 直也 2020年11/21 国際忍者学会研究会(オンライン)研究発表 ★メディアリンク: 佐賀元祖忍者村 肥前夢街道 HP:https://www.hizenyumekaidou.info/ 九州忍者保存協会 YOUTUBE:https://www.youtube.com/user/KuNinKai 九州忍者保存協会 HP:https://www.kyushu-ninja-association.jp/ ★三重大学 山田雄司教授のYOUTUBE:https://www.youtube.com/channel/UCYuLjt9Ixq1AVVnl3yPHA5Q/videos ★忍者の歴史や概説が分かりやすい「NINTUBE」:https://www.youtube.com/channel/UCoT2xOCQqOKjDCaNZv2aMVg ★有名な忍者研究・情報サイト「忍びの館」:https://ninja-yakata.net/ ★佐賀戦国研究会 YOUTUBE:https://www.youtube.com/user/Cogito907 ★佐賀の忍者を知るための図書、2冊 ★『そろそろ本当の忍者の話をしよう』 (最新版忍者ビジュアルガイドブック) 単行本 – 2018/8/25 佐藤 強志 (著, 写真), 山田 雄司 (監修), ふるかは ひでたか (イラスト), 清川 繁人 深川直也 伊藤誠之 (その他) ※佐賀藩、蓮池藩の成り立ちと忍者関連について詳しく掲載されています。 ↑AMAZONで購入可能です。 ★『忘却の日本史』第15号(2018/8/6) P.58~67 「佐賀の忍者・山伏・天狗」深川 直也 著 / 2018年までの情報は網羅されています。佐賀の忍者を詳しく知りたい方にはお薦めです。 ↑AMAZONで購入可能です。 【 Q&A履歴 】: Q:佐賀県の忍者のルーツは、伊賀・甲賀どちらがルーツになるのでしょうか? それとも全く別の発祥というイメージですか? A:佐賀県の忍者のルーツは、今のところ伊賀・甲賀との繋がりは見えません。 発祥は不明という感じです。だた九州発祥とも言えず、何とも分からない状況です。 Q:忍者全般への質問なのですが、伊賀者・甲賀者が、戦国時代〜江戸時代にかけて、どのように全国に広がっていったのか、一説としてで結構なので、ご存知でしたら教えて頂けますか?可能であれば、その理由も合わせて教えてください。 A: 戦国時代の近畿圏で、優れた城攻めの技術を持っていた傭兵集団の伊賀衆・甲賀衆は、織田信長の「天正伊賀の乱」などの被害もありながら、それ以降も、伊賀衆・甲賀衆として織田軍~豊臣軍のもとで活躍をつづけ、天下統一した秀吉の兵農分離政策で「衆」としての組織が否定、解体されます。 秀吉が配置した新領主・新体制のもと、伊賀衆は浪人になるか百姓になるかの選択が迫られ、この風潮に抵抗する者は国外追放となるなど、甲賀でも同じような状況で、これ以降、個々人で他の地域の大名に仕官したり、各地に散らばる事になります。(それより前から、他の地域の大名に仕えていた者もいます) 江戸時代になると、徳川家康の家臣・服部半蔵正成が、江戸の半蔵門前に屋敷を構え、城の警備を任されます。このように伊賀者・甲賀者はその「忍の技術」でもって各地の大名に召し抱えられ、下級武士として、警備役や情報収集などの公務を行いました。 ※上記の典拠資料:「伊賀者・甲賀者考」藤田達夫 著(三重大学)『忍者研究』第一号(2018.8月発行)に収載。 ★地方に散らばった例:徳島県徳島市HP:https://www.city.tokushima.tokushima.jp/smph/johaku/meihin/page02-00/tokushimahistory19.html) ★青森県、弘前藩の甲賀系忍者「4代藩主の津軽信政公が甲賀出身の中川小隼人を召し抱え、中川流忍者集団を形成、長い間、活動していた」https://www.sankei.com/economy/news/170909/ecn1709090016-n1.html ★島根県松江市:「松江藩に忍者」古文書で裏付け/三重大教授講演 (朝日新聞 2019年10月13日) https://www.asahi.com/articles/ASMBD4QBQMBDPTIB009.html 本文より:「1620~33年ごろの松江城下の町割りが描かれた『堀尾期松江城下町絵図』を調べたところ、現在の外中原町付近に『伊賀久八』など伊賀国(三重県)出身者とみられる名前が約40軒密集していることを発見。その後、岡山池田家の古文書で松江藩に『忍者』が存在したことが裏付けられたという。山田教授によると、織田軍と争った天正伊賀の乱の後、伊賀を逃れて浜松(静岡県)の堀尾吉晴に仕えたという。堀尾家とともに松江に入り、大坂夏の陣に鉄砲隊として参加するなど忠晴の代まで松江藩にいたという。山田教授は『普段は治安維持や情報収集のほか、鉄砲の訓練をしていたのではないか』と話した。」 Q:江戸時代以降に、甲賀流・伊賀流の全国への広がり方に傾向はあるものでしょうか?想定される理由も分かれば、合わせてお伝えください。 A:この全国分布については、私は把握しておりません。 Q:佐賀の忍者に特徴はありますか? A:管見の限り特別な特徴は、現在のところ無く、「佐賀独自」の忍法・忍術も見いだせておりません。 具体的には、上記に掲げた空閑三河守の配下の忍の記録から、戦国時代には組織編成されていたケースも窺えますし、私見では山伏がその技能でもって忍者に近い役割を果たしていたと思われる事や、その他、臨時の役割として武士が務めたケース、江戸時代には藩の公務として忍を務めたケースなどが散見されますが「統一的な何か」は見いだせておりません。 Q:九州の他の県にも忍者はいたか、ご存知ですか? A:戦国時代の九州一円には、必要に応じ雇われるフリーランスの忍者が存在していた可能性が高いです。 孫引きですみませんが、以下の内容を紹介します。 『新版 雑兵たちの戦場』藤木久志 著 朝日新聞出版 発行(2005年6月)より / P.133  相良氏法度(1555年 晴広法度) 三十三条  (相良氏は熊本県球磨地方の領主) 「一、人よりやとわれ候て、夜討、山立(山賊)、屋焼き(放火)の事、やとわれ主・雇主、同前に成敗」 訳:(人から臨時に雇われて、夜討、山賊、放火の事については、雇われた側、雇った側、どちらも成敗する) 上記に掲げた佐賀県鳥栖市の戦国国衆・筑紫広門の「茶売り」の特殊な放火スキル「たまご火」の事も含め、臨時で雇われる技能者がいたものと考えます。 また、薩摩の島津氏が忍者を使役していた話は、歴史研究家・桐野作人先生が2019年に詳細を発表されました。 http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2019/2019-3.html 以上、よろしくお願い致します。 特に、講演動画:「ここまで分かった佐賀の忍者史」について、 (一)レジュメをダウンロードして頂き、 (二)動画をざっと見流して頂ければ、 「佐賀の忍者がどのような人物で」 「どのような動きをしたか」 「根拠史料はなにか」 が分かるようになっていますので、まずは御覧下さい。 佐賀戦国研究会 代表 深川 直也     (2020.11/17 現在の情報です。)
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6 years ago

■ 佐賀の戦国史 ■
【出版されます!】『最新研究 江上八院の戦い』中西豪・白峰旬 共著本
慶長五年十月、筑後国においての決戦。 立花宗茂  VS  鍋島直茂  『最新研究 江上八院の戦い』 中西豪・白峰旬 共著 日本史史料研究会 発行(2019.7月末予定) 遂に発行されます! ★予約注文フォームは、下記の画像を利用頂いて良いとの事です。 最新刊.jpg PDFが良い方は、こちらからダウンロードしてください。:最新刊のお知らせ.pdf(日本史史料研究会) ―――――――――――――――――――――    推薦文                     佐賀戦国研究会 代表 深川 直也 佐賀戦国研究会は一般市民による戦国史研究会で平成二十四年(二〇一二)十月に発足し、現在に至るまで七年間、遠近から講師を招き、固定の会員制ではなく自由参加型の勉強会や歴史講演会・シンポジウムを開催しています。 先日六月二十三日には、北九州市小倉北区・KOKURAホールにて、『第二回 関ヶ原の戦いを再検討する -高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像-』と題したシンポジウムを催行いたしました。 遡ること、平成二十六年(二〇一四)八月二十四日、大阪市主催の「大坂の陣四〇〇年天下一祭」の参加事業でもあった第四回「救世主・鍋島直茂(統一政権下のサバイバル)」と題する歴史講演会の開催に当たり、配布資料作成の必要もあって、私は龍造寺鍋島家の関ヶ原合戦当時の動向について調べておりました。江上八院合戦の一般的認知について、強い疑問を抱いたのはその時です。    きっかけとなった本は、佐賀県立図書館で見つけた『八院合戦の結末と水田会見(黒田如水・加藤清正)の由来』〈筑後市教育委員会・筑後郷土史研究会、昭和五十二年(一九七七)十二月発行〉です。合戦経緯から結末、その後江戸時代を通して語り継がれた亡霊話まで、龍造寺鍋島側・立花側両方の編纂史料を良くまとめてありますので、機会があれば是非読んで頂きたいのですが、 この一冊に出会うまで、私は全くもって、江上八院合戦について無知でした。  古戦場跡にも数回足を運んでみましたが、現地凡そ二キロメートル四方の中に古塚や供養塔が点在しており、それらは実は今も地元の方々によって大切に手入れされている事を知りました。四百十九年前の熾烈な干戈(かんか)の記憶と共に。 江上八院(えがみはちいん)合戦を、皆様はご存知でしょうか? 慶長五年(一六〇〇)十月二十日、福岡県久留米市城島町の江上地区から、大川市の中八院、三潴(みずま)郡大木町横溝の一帯で繰り広げられたこの激戦は、一日で決した局地戦のためか、そもそも佐賀県内の市町村史ですら、戦闘が有ったのか無かったのか良く分からない概説に終始しています。 合戦の名称もいくつか有り、筑後側の史料では江上合戦、八院合戦とも記され、佐賀側の史料では、柳川御陣、柳川合戦と称されます。 また一般的な関ケ原合戦関連の概説書や雑誌上でも、黒田如水と大友義統(吉統)が戦った石垣原合戦は「九州における関ヶ原合戦」として紹介される中、この江上八院合戦については、取り上げられないか、単なる小競り合いとして、または合戦というより加藤清正と立花宗茂の友情物語として、ごく短い文章で記述されているのみです。 今回の白峰旬先生と中西豪先生の考証によって、初めて詳細をお知りになる歴史ファンも多いと思いますが、実は世にも凄惨な、白兵戦でした。 しかも関ケ原本戦が終結し天下の趨勢(すうせい)が決した後での、龍造寺鍋島氏・立花氏の対戦であり、『直茂公譜考補十』によると最終的には、龍造寺鍋島氏に討ち取られた立花兵の首が六百余、戦勝の証として塩漬けにされ、上方へ送られています。この数字が小競り合いと言えるものでしょうか。 中八院の北東の隅に祀られている「三太夫地蔵」、即ち立花三太夫の戦没比定地一帯は、当時の名残を感じさせる地形で、今も水堀が入り組んでいます。中西豪先生と先年この辺りを踏査した際、中西先生がぼそっと「我、天啓を得たり」と呟かれたのを、今も覚えています。 ぜひ新著『最新研究 江上八院の戦い』をお読み頂き、WEBの地図上で、 中八院の地勢をご覧頂くと同時に、佐賀城、久留米城、城島城、酒見城、蒲池(かまち)城、柳川城の位置関係、そして督戦官となった黒田如水が布陣した筑後市水田、加藤清正の布陣したみやま市瀬高町、などの位置などを、俯瞰(ふかん)的に把握して頂ければ、同書への理解が深まる事と思います。 さらに、江上八院の戦いの存在は、日本史上ではトリビアルな事かもしれませんが、実は非常に奥が深いのです。前段階では私戦が復活した九州で、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂、この三大名の思惑が書状上、私領拡大または御家存続を懸け、複雑に交錯しています。これをマクロの視点として、ミクロでいえば、江上八院合戦に際しての、龍造寺鍋島家と立花家、それぞれの家中に見える、動揺、対立、統制、及び戦闘経緯と結果から見いだされる沢山のファクターこそ、その後・江戸時代の両家の有り様に直結するものだと思います。 ともかくこの合戦の歴史が、ようやく史実として、まとまった一冊の研究書として、世に出る時期が来たのでしょう。当会としても感無量です。 ぜひとも全国の多くの研究者や歴史ファンに読まれることを願います。 ※誰に頼まれた訳でもなく、勝手に推薦文を書かせて頂きましたが、もし失礼が有りましたら、大変申し訳ありません。宜しくお願い致します。                                                   令和元年六月二十五日 記 (踏査時の写真から) 2017-08-21 13.46.27-1.jpg 2017-08-21 13.45.24.jpg                                              
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6 years ago

■ 佐賀の戦国史 ■
★第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ―高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像―★北九州市小倉にて、2019.6/23開催!