「悩みなんてない」と悩ましい顔を見せる方は少なくありません。悩みがあることを恐れたり、ダメなことと言い聞かす頭が、苦しさを感じさせる胸のつっかえを取り出すことを邪魔してしまっているのかもしれません。スッキリしたいなら、軽やかさ健やかさを感じたいのなら、勇気を持って、心の奥底の声に耳を傾けることが大切な一歩かもしれません。
苦しみから離れる生き様としてブッダが説いた8つの道(八聖道)のラスト2つが、正念(正しく気づき/自覚を持つこと)と、正定(正しく集中を定めること)です。なぜその2つが大切なのか、お話させていただきました。
苦しさをもたらす経験をもたらした人がいるときに、その思い出で苦しむときには。その感情や記憶は自分の体を今も苦しめるものかもしれず、早めに成仏をさせる方がいい。そのためにどうしたら。そんなお話です。
頭で色々考えすぎて苦しい時。心は未来や過去や今ここにいない誰かのことへとあちこち飛び回る。しかも、そうした考えは無自覚に呼び起こされてしまっている。自分を苦しめることにも関わらず。そんな時に便利な方法について。
ブッダは自ら「2つことしか教えてない。苦しみが生まれる様と、苦しみから逃れるあり方と」と語っています。では、その中身は何か?と問われた時の答えについて。すでに過去の偉い方々が答えを用意してくれています。
Sabbapapassa akaranam, Kusalassa upasampada,
Sacittapariyodapanam, Etam Buddhana sasanam.
諸悪莫作衆善奉行
自浄其意是諸仏教
悩ましい心を文字にしてみる、もしくは口に言葉として出してみることだけで、ずいぶん心もちが変わるものだと実感します。それは自分の心の有り様を自分で客観視するような行為なのかもしれません。そして、逆に聴く側に回る時も、相手が言葉を探している時もひたすらそれを黙って待ってあげることが、相手の心を軽くしてあげるのに役立てるかもしれません。
ヒトは、正しいか正しくないかを白黒つけたがる生き物なのだと思います。それは進化の過程で生き残るために必要だったからでしょう。でも、その機能により苦しみも生まれたかもしれません。そんな時は、ゼロかイチかのあいだを楽しむ。はざまを遊んでみると良いのかもしれません。
アリストテレスは、外面のもの(富、権力、名声、美しさ)は幸せをもたらすけれど一時的で、奪われも失いもするものだと説き、一方で、人生を通した幸せには、幸せそのものを追求しなければ得られないと説いてます。そのためには、内面のもの(徳 = 人間としての能力)を成熟させていくための努力を、その成熟自体に向けていく必要があると説いています。そんなお話しです。
分かりやすい目的(ゴール)のプロセスにも楽しさやレベルアップのゴールを見出すこともできるのでは。そんなお話しです。
佐々井上人の有難い背中の後押しにて、バンガロールで今月開催される世界宗教サミットへ参加させて頂く事となりました。そのご報告です。
苦しみが抜かれ、楽しさ喜ばしさが生まれる機会を作る - 抜苦与楽。この具体的な中身について考えてみました。
頭でどうこうしようとするのでなく、心のままに縁に身を委ねてみると、思いもよらぬ有難い機会が生まれ、人様にもその恩をめぐらせていきたくなる。そんなお話しをさせて頂きました。
戒(かい)は、守るべき自己努力事項。国によって見た目や教えが違う仏教において、どの国でも共通する(はず)の5つの戒の3つめ目。それが口に関する災いについての戒めです。その内容について。
先日の名古屋でのお話会にて、「物事は心が作り出す」というブッダの教えの通りだなぁと感じる出来事がいくつかありました。そのお話です。
ジョナサン・ハイトの「しあわせ仮説」での結論でもある「しあわせは”あいだ”からやってくる」。ブッダの「中道」も同じ概念だと考えてます。その考えについてお話しさせて頂きました。
人は無自覚のうちに自分の好き/嫌いの感情を、理由たっぷりに補強する傾向があるそうです。「絶対好きになれない」という相手に対しても、少し余裕を持って違う視点を「努力」することで、断定的なものの見方をしがちな我々の脳に視野の広さを与えてくれるかもしれません。そうすれば、より世の中を正しくみれて、かつ生きやすく進んでいけるかもしれません。
フロー体験を感じるような「やること」を手にすると、人生の幸せには良い。でも、それには条件もある。そんなお話です。
人は考え過ぎてしまう生き物。理由など求めてもキリがないものに理由を求めてしまったり。そんな時はどうしたら。
ゴールの姿はイメージしやすいけど、そこへの道のりは簡単でない。でもそのプロセスでも喜びを見出せるようになれば、日々のあり方は変わるのでは。