最後の1篇、柳田國男が書き残した、遠野の「獅子踊り」の歌です。
現在も保存活動が続けられておち、県の内外で発信があります。こうした神事で、はっきりと継承が続いているものは貴重なのではないでしょうか。
私も聞いたことがないため、本当に淡々と読み上げただけのものになります。意味理解ができたときに、また再収録したいと考えています。
以上が、1910年に刊行された『遠野物語』をたどる旅の終着点となります。
今後、増補版にあたる『拾遺』についても同様の試みはしてみたいと考えており、その際にはまたこのチャンネルを再始動するつもりですが……いったんは、本編にて完結とします。お付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました。
第119話、最後の1篇は「獅子踊り」です。とても長いため、歌の部分は次回の最終話にまとめて読み上げます。
このような、祭りの歌が文字として記録され、100年先の出版物に「まるっと」残っていることの凄みを感じます。
『遠野物語』本編としては、これが最後の一話になります。お付き合いいただき、ありがとうございました。
「いじわるな継母と、その連れ子にあたる義姉妹にいじめられていた気立ての良い娘が神の恵みを受けて、やがて長者の妻になる」このフォーマットは「紅皿欠皿」と呼ばれ、少なくとも江戸時代には黄表紙(読み物)や歌舞伎などでよく知られていたようです。
シンデレラだなあ、と思うかもしれませんが、実はシンデレラが日本に輸入されたのは明治33年です。「おしん」という娘が弁天様のご利益で殿様に見初められ、落とした扇を手掛かりに、殿様に娶られるというアレンジが加えられました。つまり、紅皿欠皿はシンデレラ由来ではなさそうです。
そう思うと紅皿欠皿は、いわゆる「なろう系」の追放令嬢モノほうに近い気がします。
本文中では「ヤマハハは山姥(やまうば)のことなるべし」と書かれ、それ以降、作中では一貫して「ヤマハハ」というカタカナの呼び名が使われます。
また、両親が呼ぶ「おりこひめこ」は、「かわいいかわいい娘ちゃん」といったニュアンスでしょうか。
語り部のかたが今でも引き継ぐ「これでドントハレ」もここで紹介されます。
話そのものは大変ハードですが、独特の言葉選びがどこか優しい一遍です。
もとは罪人を処刑する場所で、現在は共同墓地になっているというダンノハナ。掘って出てきたという「大きな甕」には、いったい何が入っていたのでしょうか。
動物の象を埋めた森、とされる、ふしぎな場所の話。
「地震が来たらここに逃げろと」いう言い伝えからは、津波や地滑りから身を守るための先人の経験知が感じられます。
山口のでんでら野から一望できる景色のうち、特徴的な遺跡や何かの史跡と思われる箇所の説明。
時代も文化もまったく違う、謎の多いふたつの遺跡があり、そこから出土するものにも特に関連性は見られないとのこと。厳しい土地で生きたひとびとの、命の残滓を感じる一遍です。
本作中では、柳田國男は「蓮台野」と呼んでいますが、「でんでら野」のほうが一般的に知られているため、タイトルと文中の呼称が異なります(蓮台野と書いた理由もしっかり研究されていますが、本稿では割愛します)。
2024年の冬に、山口のでんでら野に行ってきました。
山口のでんでら野は、生活集落のすぐ近く(本当に、びっくりする程すぐ近く)にあり、山口の美しい田園風景が一望できました
粗末な藁小屋が、少しの説明と共に建てられていました。捨てられた老人の記憶が土に染み込んでいるような、とても寂しい場所でした。
現在も9月におこなわれる「遠野まつり」では、各集落ごとの神楽舞があるそうです。ほぼ「獅子舞」の頭と同じものでしょうか。喧嘩っ早く、子どもの頭などを噛んで悪いものを取ってくれる神様。地域の神として、とても親しみやすい感じがあります。
現在も行われる「雨風祭」についてのお話。北側に祀る、という風習から、北方の守護神である四神のひとつ、玄武信仰まで一気に言及します。短い文章の中でキレッキレな発想が出てくるのも、本作の面白さです。
遠野のあちこちにいるという、野生の占い師の話。
特別な修行をしたり、おひでのような阿弥陀経に帰依しているものともまた少し違った、日常生活を送りながらふしぎな力を持つにいたったひとびとがいたようです。
かつて外国人が多く住んでいた、という山田に出現する、いやにリアルな異国の蜃気楼の話。毎年、まったく同じような異国の街の光景が幻として現れる。今でこそSF的な解釈が捗りますが、当時のひとびとはこれをどのようにとらえたのでしょうか。
1月15日、小正月の晩におこなわれるたくさんの行事。その中から「月の占い」と「稲占い」の紹介です。序文にあった以下の文
「稲の色合いは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処の同じきなるべし」は、この稲占いで家ごとに植える稲を決めたから、ということになるのでしょう。
雪女といえば小泉八雲ですが、ここで語られる雪女も、とてもよく似た雰囲気があります。
「実際に雪女を見たという人は少ない」、つまり、生きて帰れたものは多くなさそうです。北国の雪の過酷さも感じられる、短い一遍。
1月15日の晩にある「福の神」のお巡り行事の話です。最も身近でイメージしやすいのがハロウィンになってしまっているように思います。
本編では語られていませんが、この日はその六九に出てきた「オシラサマ」にとっても、たいへん大切な日なのだそうです。
「死んだ老婆の身体がむくむくと起き上がる」という、とてもストレートな怪異ではあるのですが、旅人も家主がどことなく身勝手で、死体を操っていた狐はなんとなく可愛らしく、話の結末はいやにあっけない。
物語として全体的にちぐはぐで、だからこそのリアリティがあり、妙に印象に残ります。
妻の姿をしたものを山中で見かけ、化け物め、と退治……しかしそいつは、死んでも正体を表しません。もしや俺は本当に妻を殺してしまったのか。淡々と書かれていますが、実際の体験だと思うと、夫の心境が真に迫ります。
東北の地震における津波被害のつらさは私たちの記憶にもまだ新しく、原文の淡々とした文体は、かえってもの悲しい気持ちになります。
【期間限定公開】本編にはさむ形でのお知らせとなり申し訳ありません。
本チャンネルで朗読配信をしていた「遠野物語」を、ZINE「いちばんよみやすい遠野物語」として刊行しました。
都内の販売イベント、通販、もうひとつのお知らせについて、最初期からこの取り組みを見届けてくださっていたリスナー様にいちばんにお知らせしたく、期間限定で号外配信を公開いたします。
序文で「路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず」と語られている、神や山の名前を刻んだ石たちに関する、とても短い一遍。
序文には、この石塔の他にも、本編で伏線回収のように情報が明かされる言葉がちりばめられています。読み進めるうちに「ああ、これのことを言っていたのか」と腹落ちする感じが出てくるのも面白いです。