
2025年12月28日 降誕節第1主日
説教題:笑い声が響く世界であるように
聖書: マタイによる福音書 2:13–18、出エジプト記 1:15–22、詩編 146、コリントの信徒への手紙 二 1:3–7
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまの誕生は、ヘロデ王には喜ばれませんでした。彼は自分の地位が失われることを人一倍恐れていた人でした。彼はユダヤの王として生まれた、という幼子を探し出して殺そうとしました。彼は、ベツレヘムとその周辺から2歳未満の男の子を探し出します。そして、自分の兵に命じて、その子たちを一人残らず殺してしまいました。愛する子どもたちを失ったことで、その親たちは泣き、叫んでいます。マタイは預言者エレミヤの言葉を用いて、彼らが悲しむその様子を描いています。聞こえてくるのは、親たちの悲しむ泣き声。神よ、なぜですかと叫ぶ声。感情の行き場のない怒りを必死で押し殺すようなうめき声でした。この時、イエスさまの家族はこのような泣き声を上げる必要はありませんでした。神が天使を用いて、エジプトへ逃げるようにと彼らに伝えたからです。果たしてこれで物語はハッピーエンドなのでしょうか。そんなことありませんね。だって、何の罪もない子どもたちが殺されてしまったのですから。マタイは、幼子が虐殺されるこの出来事に関してはあくまでも報告に留めています。そこに、神の積極的な介入をマタイは認めていません。エレミヤの語ったことが起こってしまったのは、神が願ったからではありません。人の命を奪ってまで自分の地位を守ろうとする、ヘロデの罪こそが原因でした。この出来事のように、人間の罪や過ちが、この世界に悲しみの声を広げていくことは、今も変わらずに起こり続けています。クリスマスの物語は、イエスさまの誕生の後に、このような悲しみの物語を紹介することを通して、私たちのことを単に喜ばせてはくれません。この世界に悲しむ声や涙に溢れた叫び声が溢れている現実を思い起こさせます。私たちが抱える悲しみのただ中に、イエスさまが来たことをマタイは伝えます。それは、悲しみを引き起こしてしまう、私たち人間の罪を赦すために他なりません。私たちの日常に、主キリストにあって、喜びと感謝と笑顔を与えるためです。クリスマスを迎えた後だからこそ、私たちはより一層強く願いたいと思います。私たちの日常も、私たちの生きるこの世界も、人間の罪や過ちによって、たくさん傷つき、損なわれ、歪みを持ち、悲しみに溢れているかもしれません。でも、そのようなところにこそ、イエスさまが来て、神が共に居てくださっている。このことが私たちにとっての大きな希望であり、慰めです。だって、私たちが涙を流し、悲しむ場所が広がっていく以上に、主キリストにあって、癒やしや喜びや平和が広がっていくのですから。笑い声が主イエスにあって、与えられていくのですから。