2026年1月11日 公現後第1主日
説教題:希望なき場所に訪れる友
聖書: ヨハネによる福音書 11:1–16、ヨブ記 2:11–13、詩編 133、ヤコブの手紙 2:21–23
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまにはベタニアに、マリアとマルタ、ラザロという友人たちがいました。ある時、イエスさまはラザロが病気であるという知らせを受けましたが、イエスさまはベタニアへすぐに旅立たず、同じところにとどまったままでした。でも、その2日後に、イエスさまは弟子たちにラザロのもとへ行くと言い始めます。イエスさまは思いもよらぬことを口にしました。「ラザロは死んだのだ」(15節)。この物語は、病気で亡くなったラザロをイエスさまが生き返らせて終わります。ラザロのもとへ行って、彼を生き返らせて、命を与えることがイエスさまの心のうちにあったのでしょう。でも、それなのになぜイエスさまは、すぐさまラザロを失って悲しむマリアやマルタもとへ出向くことを選ばなかったのでしょうか。それは、ラザロの家族や友人たち、またベタニアの村の人たちがラザロの死をきちんと受け止める時間を作るためだったのではないでしょうか。イエスさまは、マルタやマリア、ラザロの友人たちやベタニアの人たちがラザロの死を悲しむ時間を奪いたくなかったのかもしれません。出発を2日間遅らせることによって、誰もが逃れることができない死を突きつけられる期間をイエスさまは延ばしたといえます。でも、そんな死に対する恐れや、死の前に対する無力感を味わったからこそ、ラザロの復活に大きな喜びと慰めを彼女たちは見出すことができたと思います。この物語は、死という圧倒的に希望がなく、悲しみや絶望にあふれている場所に、イエスさまが復活の命を携えて、訪れてくださったことを伝えています。その際、イエスさまはラザロにとって、またマリアやマルタにとって、彼らを心から愛する友として、ベタニアへと向かっています。イエスさまは、すべての人の友となるために、私たちのもとに来てくださいました。それは、私たちにとって、大きな驚きです。神の子であるイエスさまが、私たちの友となってくださっているのですから。死が圧倒的に支配している場所に、命をもたらすために訪れてくださったように、イエスさまは私たちが希望を失う場所に訪れ、共にいてくださる友です。イエスさまは私たちにとって、どんなに希望のない場所であっても、決して見捨てずに一緒にいてくださる友です。それは、私たちがこの地上で経験する、あらゆる苦しみや悲しみにおいても、そして死の瞬間においても、共にいてくださることを意味します。イエスさまは、私たちといつも一緒にいて、希望のない場所でこそ、希望を手渡してくださる友です。
2026年1月4日 降誕節第2主日
説教題:ナザレのイエスと共にある旅
聖書: マタイによる福音書 2:13–23、創世記 26:15–25、詩編 46、ローマの信徒への手紙 12:17–18
説教者:稲葉基嗣
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私たちの会は、ナザレン教会という名前の世界教会に所属しています。ナザレン教会は、ナザレ出身のイエス・キリストの教会という意味です。社会の中で苦しみ、弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、手を差し伸べたこのナザレのイエスのように、自分たちも、人を愛したい。そんな願いがこのナザレン教会という名前には込められています。イエスさまは、ベツレヘムで生まれましたが、すぐにナザレには戻れませんでした。ユダヤの王ヘロデが、イエスさまを殺そうとしていたためです。そのため、イエスさまの家族は、難民としてエジプトに身を寄せました。彼らは安住の地を持たずに生活をしていたといえます。先の見えない旅をイエスさまはその誕生の時から強いられていました。ある程度時間が経ってから、イエスさまの家族はナザレの村へやって来ました。マタイにとってナザレは、ようやく身を寄せることができた安全な場所でした。けれども、ナザレが永遠の住まいになるなんて保証はどこにもありません。そう思うと、故郷のナザレだって、一時的な住まいともいえます。イエスさまの家族は安心した居場所を持たない、旅人のような家族でした。それは何も、イエスさまやイエスさまの家族だけの経験というわけではありません。誰もが、この地上においては、彼らのような旅人であるはずです。だって、私たちの故郷は天の御国にあるからです。今はまだたどり着かないけど、やがて必ずたどり着く天の御国に、私たちは思いを寄せながら、この地上での旅を続けています。イエスさまはその生涯の初めから、まさに旅人でした。不安定で、行き先の見えない日々をイエスさまは家族と一緒に過ごしました。イエスさまがそのような境遇を経験したのは、イエスさまがまさに、すべての人と共にあろうとしたからです。私たちが天の御国へと向かう、この旅の途中で経験する、あらゆる困難を私たちと共にするためにイエスさまは私たちのもとに来てくださいました。この一年も、私たちの地上での旅は、良いことも悪いこともあるのでしょう。そんな私たちにとって、確かなことがふたつあります。ひとつめは、私たちの旅は天の御国へと必ずたどり着く旅であるということです。ふたつめは、その旅の同伴者はイエスさまと教会に集う仲間たちであることです。イエスさまは私たちとどんな時も一緒にいるために来てくださいました。そして、私たちはイエスさまが私を愛し、慈しみ、憐れんでくださっているように、愛し、慈しみと憐れみの心をもってお互いに手を取り合って旅を続けましょう。
2026年1月1日 元旦礼拝
説教題:主イエスの焼き印を帯びて
聖書: ガラテヤの信徒への手紙 6:17–18
説教者:稲葉基嗣
2025年12月28日 降誕節第1主日
説教題:笑い声が響く世界であるように
聖書: マタイによる福音書 2:13–18、出エジプト記 1:15–22、詩編 146、コリントの信徒への手紙 二 1:3–7
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまの誕生は、ヘロデ王には喜ばれませんでした。彼は自分の地位が失われることを人一倍恐れていた人でした。彼はユダヤの王として生まれた、という幼子を探し出して殺そうとしました。彼は、ベツレヘムとその周辺から2歳未満の男の子を探し出します。そして、自分の兵に命じて、その子たちを一人残らず殺してしまいました。愛する子どもたちを失ったことで、その親たちは泣き、叫んでいます。マタイは預言者エレミヤの言葉を用いて、彼らが悲しむその様子を描いています。聞こえてくるのは、親たちの悲しむ泣き声。神よ、なぜですかと叫ぶ声。感情の行き場のない怒りを必死で押し殺すようなうめき声でした。この時、イエスさまの家族はこのような泣き声を上げる必要はありませんでした。神が天使を用いて、エジプトへ逃げるようにと彼らに伝えたからです。果たしてこれで物語はハッピーエンドなのでしょうか。そんなことありませんね。だって、何の罪もない子どもたちが殺されてしまったのですから。マタイは、幼子が虐殺されるこの出来事に関してはあくまでも報告に留めています。そこに、神の積極的な介入をマタイは認めていません。エレミヤの語ったことが起こってしまったのは、神が願ったからではありません。人の命を奪ってまで自分の地位を守ろうとする、ヘロデの罪こそが原因でした。この出来事のように、人間の罪や過ちが、この世界に悲しみの声を広げていくことは、今も変わらずに起こり続けています。クリスマスの物語は、イエスさまの誕生の後に、このような悲しみの物語を紹介することを通して、私たちのことを単に喜ばせてはくれません。この世界に悲しむ声や涙に溢れた叫び声が溢れている現実を思い起こさせます。私たちが抱える悲しみのただ中に、イエスさまが来たことをマタイは伝えます。それは、悲しみを引き起こしてしまう、私たち人間の罪を赦すために他なりません。私たちの日常に、主キリストにあって、喜びと感謝と笑顔を与えるためです。クリスマスを迎えた後だからこそ、私たちはより一層強く願いたいと思います。私たちの日常も、私たちの生きるこの世界も、人間の罪や過ちによって、たくさん傷つき、損なわれ、歪みを持ち、悲しみに溢れているかもしれません。でも、そのようなところにこそ、イエスさまが来て、神が共に居てくださっている。このことが私たちにとっての大きな希望であり、慰めです。だって、私たちが涙を流し、悲しむ場所が広がっていく以上に、主キリストにあって、癒やしや喜びや平和が広がっていくのですから。笑い声が主イエスにあって、与えられていくのですから。
2025年12月24日 イブの祈り
説教題:主イエスを王として迎える
聖書: マタイによる福音書 2:1–3
説教者:稲葉基嗣
2025年12月21日 待降節第4主日
説教題:あの夜、輝く星が示したように
聖書: マタイによる福音書 2:1–12、創世記 1:14–19、詩編 100、ヘブライ人への手紙 1:1–4
説教者:稲葉基嗣
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古代の人々にとって、夜空の月や星は、様々なことを教えてくれました。旅人たちにとって、夜空の星は方角を知る上で重要なしるしでした。また、星の動きは月や太陽と共に、時間の流れを教えてくれました。きっと現代に生きる私たちよりも、星の動きが日常に与える影響に対して、古代の人々はより敏感であったと思います。夜空の星が人々の日常に大きな影響があると考えたからこそ、占星術の専門家たちが古代世界には存在しました。彼らは星を観察し、様々な文献を紐解きながら、星の位置を解釈しました。星の動きや配置が、自分たちや国の運命を伝えると、彼らは考え、研究をしました。こういった占星術が盛んに行われていた地域から、1,400km以上もの旅をして、占星術の学者たちはユダヤにまでやって来ました。なぜ彼らはユダヤ人の王の誕生をお祝いしに行ったのでしょうか。小国の王の誕生のお祝いに、片道1ヶ月半以上の時間や旅のために必要な財力を費やそうとするでしょうか。きっとユダヤの王の誕生を知らせる星の輝きやその星の配置が、彼らの探究心を刺激するような、とても目立つものだったのでしょう。この星の輝きの意味を知るために、彼らはユダヤの新しい王に会わなければいけないと思ったのでしょう。古代の人々にとって、王の誕生は時代の移り変わりを示すものでした。ユダヤ人という力のない、目立たない人たちの王として生まれてくる子ども。そんな子どもが、もしも時代の移り変わりを示すのであれば、驚くべきことです。事実、博士たちがこの時に出会った、主イエスの誕生は、大きな時代の変化でした。でも、それはわかりやすく見える形で訪れたものではありませんでした。神の子であるイエスさまが人となって、私たち人間の間で生活をしました。それは、イエスさまのそのような姿を通して、神が私たちといつも共にいることを神が教えるために、神の側が引き起こした変化でした。遠くの方で輝く星のように、神は遠い場所にいる方ではありません。イエス・キリストの誕生を通して、神が明らかにしたのは、神が私たちと共にいるということです。神が私たちのことを遠くから眺めているのではなく、近くで、一緒にいてくださる。神は人生のあらゆる瞬間を分かち合ってくださる。喜ばしい時も、苦しい時も。そんな私たちやこの世界の傷ついている部分に目を向ける度に、私たちは思い起こしたいと思います。神が共にいて、私たちの暗い部分を照らすために、主イエスは来てくださいました。
2025年12月20日 キャンドルサービス
説教題:旅する主イエス
聖書: マタイによる福音書 1:22-23, 2:1–12
説教者:稲葉基嗣
2025年12月14日 待降節第3主日
説教題:声なき声を受け止めるために
聖書: マタイによる福音書 1:1-17、サムエル記 下 11:1-27、詩編 56、ヘブライ人への手紙 5:7–10
説教者:稲葉基嗣
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イエス・キリストの系図を眺めてみると、実にたくさんの名前が並んでいます。この系図にはたった一人だけ、きちんと名前が紹介されていない人がいます。そこには「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書かれています。彼女の名前がバト・シェバであることは、旧約聖書の物語に馴染みのあるユダヤの人々にとっては、実に明白なことだったと思います。そこには、ダビデの大きな過ちが記錄されています。ダビデはウリヤの妻であるバト・シェバを寝取ります。ダビデはそんな自分の罪を覆い隠すために、バト・シェバの夫のウリヤが戦場で命を落とすように働きかけました。マタイはバト・シェバの名前のみを「ウリヤの妻」と書いてあえて隠すことによって、このようなバト・シェバの物語をより目立たせています。物語において、彼女はとても受動的です。そんな彼女とは対極的に、ダビデからバト・シェバに向けられた行動が、物語の中では矢継ぎ早に紹介されています。男性優位の社会において、彼女は王をはじめ、男性たちの前で力を持ちません。彼女にはダビデの呼び出しに応じるしか選択肢がありませんでした。現代的に表現するならば、この出来事は、バト・シェバがダビデから性暴力の被害を受けたとも表現できるでしょう。彼女は受動的に描かれているだけでなく、声も奪われています。彼女の発言は、「私は子を宿しました」のみです。被害者である、バト・シェバがどれほど言葉を奪われているのか。彼女がどれほど主体性を、自分の意思で決定し、行動する力を奪われているのか。そのような暴力の被害者であるバト・シェバの物語としても読めてきます。彼女の夫である、ウリヤもまた、ダビデの暴力の前に、声を奪われた被害者です。バト・シェバやウリヤのように、自分よりも大きな力による暴力に晒される。このような被害者の声なき声は、この世界のあらゆるところで聞こえます。キリストの系図に記された「ウリヤの妻」という言葉はまるで、私たちが生きる世界のこのような現実を指摘しているかのようです。もちろん、キリストの系図でバト・シェバの名前が伏せられているのは、私たちの生きるこの世界の現実を指摘するためだけではありません。あらゆる暴力によって声なき声を生み出してしまっている、私たちの世界に平和をもたらす方が、訪れることを指し示すためです。イエスさまは、私たちの声に耳を傾け、声なき声さえも受け止めてくださる方です。この暴力の連鎖を止めるために、イエスさまは来てくださいました。
2025年12月7日 待降節第2主日
説教題:広い場所へと導くために
聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、ヨシュア記 2:1-24、詩編 4、フィリピの信徒への手紙 2:6–8
説教者:稲葉基嗣
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イスラエルの人々にとっては、ラハブは英雄のような存在です。ただ、エリコの人々にとってはどうでしょうか。彼女は自分の命が助かるために、エリコの町を引き渡した裏切り者だといえます。ラハブはなぜエリコの町を裏切ったのでしょうか。ヨシュア記の物語は、ラハブを誰の保護の下にもない遊女として紹介しています。彼女は、社会の当たり前から外れて、社会の片隅で生きていました。彼女の家は城壁の中にあったように、彼女は社会の片隅で生きていました。皮肉なことに、ラハブの名前はヘブライ語で、「広い」という意味です。自分の名前とは真逆の環境で、彼女は窮屈さを感じながら、生活をしていました。このような自分の境遇に望みを見いだせないため、彼女はエリコの町を裏切る道を選んだのでしょう。そんなラハブがエリコの町の中で経験していた息苦しさや窮屈さは、形が違えど、私たちが経験するものともいえます。私たちはきょうは礼拝のはじめに、詩編4篇を声を合わせて読みました。詩人は、「あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました」と祈っています。直訳すると、「狭いとき、あなたは私に広いスペースを与えてくださった」。私たちを窮屈にする、あらゆる苦しみ、生きにくさから解放され、私たちを取り囲む世界が広々としたものとなる。それは、この詩編を受け止め、祈ってきた、あらゆる時代の人々の祈りです。広い場所へ行くことを願って、狭い場所を抜け出したラハブの物語は、そんな私たちの叫びを思い起こさせる物語です。だからこそ、マタイ福音書の系図にラハブの名が記されているのでしょう。窮屈さを感じているあなたの叫びを神は確かに聞いておられる。だから、神はイエスさまを私たちのもとに与えてくださったと、系図の中に入れられたラハブの名前は、私たちに伝えているかのようです。ただ、神はイエスさまを通して、すぐさま窮屈さや息苦しさを感じないような、広い場所へと私たちを移すことはしませんでした。神が選んだのは、私たちが息苦しさを感じる場所へとイエスさまを送ることでした。窮屈さを私たちと一緒に味わい、一緒に広い場所を目指して歩み続けるために、イエスさまは来てくださいました。それは、私たちの狭き所を広い所へと変えていくためです。愛の欠けた所、憐れみのない所、命が蔑ろにされる所、争いのある所、私たちが窮屈さや息苦しさを感じる、あらゆる所に、どうか希望の源であるキリストがきょう、訪れてくださいますように。
2025年11月30日 待降節第1主日
説教題:誠実さをもって生きる
聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、創世記 38:12–26、詩編 122、ローマの信徒への手紙 13:11–14
説教者:稲葉基嗣
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詐欺師やいたずらする人という意味の、トリックスターという言葉があります。物語に登場するトリックスターは、誰かを騙したり、出し抜いたりすることによって、物語に転換点を提供するような重要な役割を担います。タマルは、そのひとりです。二人の夫を亡くしたタマルは、古代イスラエルの制度に従って、死んだ夫の弟である三男が彼女の新しい夫となるはずでした。しかし、義理の父であるユダは、タマルが三男と結婚することをゆるしません。ユダの決断は、ユダの家の保護の外にタマルが置かれることに等しいことでした。自分の置かれている辛い状況を何とか改善し、未来を切り拓いていくために、タマルは遊女のふりをしてユダの前に現れ、自分の身体を差し出すことによって、彼女はユダとの間に子どもを得ました。ユダを騙し、出し抜き、ユダの子どもをお腹に宿すことによって、彼女はユダの家族の中に自分の居場所を確保し、将来の安全を勝ち取りました。正直、タマルについてのこの物語は、現代に生きる私たちにとって、「倫理的にどうなの?」と、問いかけたくなる物語です。けれども、力のない人たちにとって、トリックスターの物語は現実へのささやかな抵抗と希望を与えるような物語でした。すべての人の救い主として私たちのもとに来てくださった、イエスさまの系図の中に、トリックスターであるタマルの名前があります。彼女の目の前に、誠実さを選び取るというような選択肢はありませんでした。騙し、出し抜き、自分を犠牲とするしか、彼女が生き抜く道はありませんでした。本当は、誰も騙さず、出し抜くことなく、誠実に生きたい。でも、誠実には生きられない。それがタマルが歩んでいた道です。このタマルの物語はまるで、この世界の罪や人間の悪に、何とかもがいて生きている私たちやこの世界を映し出しているかのようです。マタイ福音書の系図は、タマルの名前の先に、イエス・キリストがいます。それはまるで、イエスさまが、そんな私たちの思いや嘆きをすべて受け止めてくれることを描いているかのようです。この社会の悪や、人間の罪に翻弄され、誠実に生きる道を選び取りきれない。そんなタマルや私たち一人ひとりをイエスさまは受け止めてくださっています。誠実さを失い、罪にまみれた状況の中で生きる私たちを救い出すために、イエスさまは来てくださいました。イエス・キリストは私たちにとっての希望です。私たちが誠実さをもってこの世界で生きる道を備え、いつも指し示してくださっているからです。
2025年11月23日 三位一体後第23主日
説教題:キリストをかしらとする共同体
聖書: コロサイの信徒への手紙 1:11–20、エレミヤ書 23:1–6、詩編 46、ルカによる福音書 22:31–34
説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 2年生)
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コロサイの信徒への手紙は、パウロからコロサイの信徒たちへ、彼らを励ますために書かれた手紙です。多様な文化の混ざり合う社会に置かれていたコリントの教会では、知らず知らずのうちに、教会の中に異なった思想や宗教が入り込んで、ただキリストを頭とすべきはずが、他の色々なものを同様に頭に据える生活を送ってしまいました。そうしてコロサイの人々は、自分の力では抗えない闇の中に入り込んでしまったのです。私たちも同様に、知らず知らずのうちに、キリストと同じくらい他のものを頭として、そのかしらに支配され、闇にのまれる生活を送っていることがあるのではないでしょうか。その結果犯してしまう罪の一つひとつに、一体どれほどの実感を伴って生活しているでしょうか。私たちはどうしようもないくらい自分の罪に無自覚です。闇の中をさまようしかない、そんな私たちを、神さまはなんとかして自分の元へと引き上げたいと思いました。その愛の行いを見える形にしたのが、地上に生まれたイエスさまなのです。イエスさまの生涯は、ただの一人の青年のライフログにとどまりません。ご自身の死によって私達の罪のすべてを担い、その結果私達と神が和解することを叶えてくれました。そうやって私たちは、喜びの中で生きるものになったのです。イエスさまの物語は十字架での死のさらに先まで続いています。イエスは墓に葬られた3日後によみがえり、弟子たちの前にあらわれてともに過ごしたあと、世界中に福音を述べ伝えなさいという命令を私達に下し、天にのぼられました。キリストのこの地上での生涯は、降誕から、十字架、そして復活、さらにその先の世界中への宣教まで、一本の線で繋がっているのです。時を隔ててもなお、教会の頭はイエスさまに他なりません。私たちの活動のすべては、イエスさまによらないと虚しくなってしまいます。人として生きることによって、私たちのすぐそばで笑い怒り悲しんでくださったイエスさまが教会のかしらとして私たちを力強く導き、進むべき道を明るく照らしてくれるとしたら、何と心強く、幸いなことでしょうか。来週から教会の暦ではアドベントを迎えます。この季節にこそ、私たちは十字架で死なれたイエスさまの姿を思い起こし、そのために与えられる希望を握っていきましょう。私たちは喜びにあふれてアドベントを迎えましょう。キリストの誕生を待ち望むこの季節に、キリストをかしらに据えた共同体を用いて、神様から受け取った愛をますます広げてゆきましょう。キリストの平和がみなさんと共に豊かにありますように。
2025年11月16日 三位一体後第22主日
説教題:主イエスがこだわったこと
聖書: ヨハネによる福音書 10:31–42、ホセア書 11:1–9、詩編 82、エフェソの信徒への手紙 4:32–5:2
説教者:稲葉基嗣
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きょう開いた福音書の物語は、とても物騒な始まり方をします。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまを石打ちにしようとしています。ユダヤの宗教指導者たちがこのような態度を取っているのは、イエスさまが神への冒涜とも受け取れるようなことを発言したからでした。「私と父とは一つである。」(30節)自分を神と同一視しているように聞こえるこの発言は、神を冒涜する、とても問題のある発言としてユダヤの宗教指導者たちには聞こえました。ただ、「私と父とは一つである」と発言をしたイエスさま自身は、自分と神とを完全に同一視することを伝えようとしたわけではなかったでしょう。自分と神はひとつであるというイエスさまのこの発言の趣旨は、神の願いを自らの願いとして受け止めて、行動へと移していくということです。誤解されたことは明らかでしたが、イエスさまはその発言を取り下げません。イエスさまはむしろ、石を手に握るユダヤ人たちに、旧約聖書の言葉を思い起こさせ、自分の語ることの正当性を伝えようとしました。その際、イエスさまは「あなたがたは神々である」という詩編の言葉を用いました。詩編において、王たちに向かって神々や神の子という言葉が用いられています。そのことを確認した上で、イエスさまは、神の言葉を受け止めている人たちが「神々」と呼ばれる人たちなのだと、定義づけました。それに従うならば、神の言葉を受け止めて行動する自分が神の子であると言ったとしても問題ないことでしょと、イエスさまはここで弁明しています。神々を死ぬべき存在として位置づけるこの詩編を用いることによって、イエスさまは自分が人間であることを強調しているようにも見えてきます。それは、神の子であるイエスさまが、死ぬべき人間となったということです。イエスさまはご自分が神であることに決して固執することはありませんでした。むしろ、イエスさまは私たちと同じ人となり、私たちが抱える悩みや苦しみを知り、困難を共に味わい、共に生きることに固執し、こだわりました。神が人となり、私たちと共に生きることに固執し、そこにこだわったのは、私たちがそのような叫び声を上げ続けているからです。うめき声に耳を傾けるほどに、神が私たちを愛し、慈しんでいるからです。私たちが日常的に抱える叫びも、悩みも、嘆きも、受け止め、そんな私たちを支え、共に歩むために、イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまが私たちに歩み寄り、愛し抜くことにこだわり、固執したことを私たちは知っているからこそ、私たちもイエスさまのように、共に生きる人たちを慈しみ、愛をもって、平和のうちに生きる道を選び続けていきたいと思うのです。
2025年11月9日 三位一体後第21主日
説教題:どうやって主イエスの行いを見つめることができるの?
聖書: ヨハネによる福音書 10:19–30、イザヤ書 35:1–10、詩編 95、エフェソの信徒への手紙 1:20–23
説教者:稲葉基嗣
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ハヌカの時期に、イエスさまは突然、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれ、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)と伝えられました。メシアとは、ユダヤ人たちが待ち望み続けた救い主のことです。賛否両論な行動を起こすイエスさまの姿に、人々は困惑しました。イエスさま自身、自分が何者であるのかを明言しません。だから、彼らはイエスさまに直接尋ねることにしたのでしょう。イエスさまは「私は言ったが、あなたがたは信じない」と言います(25節)。なぜイエスさまは自分がメシアであると明言するのを避けたのでしょうか。きっと、わかりやすさは時に、誤解を生むからでしょう。イエスさまが「自分はメシアだ」と言うことは、まさにそんな単純化による誤解を生み出す可能性が大いにありました。彼らが求めるメシアは、力によってユダヤ人を他の民族による支配から解放する、指導者や革命家のような人物でした。それは、イエスさまがこれまで人々に伝えてきた、自分の姿とは違ったものでした。イエスさまはこの時、メシアであるかどうかを答える代わりに、「私が父の名によって行う業が、私について証しをしている」(25節)と言って、イエスさまの行動を見つめるようにと促しました。出会った一人ひとりと向き合い、彼らに働きかけたイエスさまのその姿は、世界全体に手を伸ばし、そこに生きるすべての命を慈しみ、傷ついたところを回復させ、豊かな命をもたらしたいと願う、神の愛や憐れみを映し出すものでした。イエスさまの行動は、天の国をこの世界にもたらすものでした。けれども、現代に生きる私たちの目にはイエスさまの姿は見えません。私たちはどのようにして、イエスさまの行いを見つめることができるのでしょうか。不思議なことに、私たちはイエスさまと出会う経験をします。何よりも、私たちがイエスさまの行いをこの目で見つめるのは、この場にいる人たちとの出会いを通してだと思います。私たちと共にいることを通して、イエスさまは私たちと一緒に働いてくださいます。その意味で、私たちは教会に集う時、イエスさまが共に何かをなそうとしている、一人ひとりの姿を見つめることになります。目には見えない神の働きが、共に生きる人々を通して明らかになります。きっとイエスさまの働きは、私たちがお互いに助け合う時、平和を模索する時、誰かを思って祈る時などを通して明らかになっていくのでしょう。
2025年11月2日 三位一体後第20主日
説教題:羊飼いキリスト
聖書: ヨハネによる福音書 10:11–18、エゼキエル書 34:11-16、詩編 23、ペトロの手紙 一 2:24-25
説教者:稲葉基嗣
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エゼキエル書34章で、神はイスラエルの羊飼いとして行動することを約束します。イスラエルの歴代の王たちは、羊である民を決して気遣うことがなかったため、神自身が羊飼いとして立ち上がり、迷い出た羊である人々を探し、救い出し、傷ついた彼らを癒やし、これからもその歩みを導くことを約束されたのです。神は同時に、理想的な羊飼いとして、ダビデ的な王を立てることを約束しました。そんな理想的な羊飼いとして、イエスさまは自らを提示しました。イエスさまは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言います(11節)。羊のために羊飼いが自ら進んで自分の命を捨ててしまったならば、羊たちの命は結局、危険に晒されてしまうのではないでしょうか。イエスさまは、羊飼いが日常的に負っている命の危険を思い起こしながら、羊たちを最後まで責任をもって養い、守り続けることを伝えようとしたのでしょう。自分の命の危険を抱えつつも、イエスさまは決して止まりませんでした。出会うすべての人たちに対して、羊飼いであることをやめませんでした。福音書のイエス・キリストの物語を読み進めるならば、そんなイエスさまの歩みは、最終的に、十字架の上での死にたどり着くことになると知ることになります。そのため、単なる日常的な命の危険だけでなく、最終的な自分の死も含めて、イエスさまは「羊のために命を捨てる」と語ったのでしょう。イエスさまの死と復活は、すべての人々に命を与えるものでした。罪に支配されている日常を終わらせ、神の愛に包まれ、命にあふれる歩みへと私たちを招くために、イエスさまは十字架にかかり、すべての人に罪の赦しを宣言されました。そして、死者の中から復活することを通して、イエスさまは、私たちに対しても、復活の命に生きる希望を与えてくださいました。イエスさまはまさに、十字架の死と復活を通して、すべての人に命を与え、その歩みを守り、最後まで責任をもって導く羊飼いとなりました。イエスさまは、どのような人に対しても、羊飼いでいてくださいます。というのも、囲いの中に入っていない、他の羊を導かなければいけないと、イエスさまは語っているからです。文字通りすべての人をご自分の羊と受け止め、命を与え、養い、導くために、イエスさまは追いかけてくださる方です。ですから私たちの人生は最初から最後まで、羊飼いであるキリストと共にあります。私たちが一緒に歩んでいる、天のみ国に至るその旅の終わりまで、羊飼いであるキリストは私たちの旅に伴ってくださいます。羊飼いキリストはいつも、天の御国へ続く私たちの旅を支え続けてくださいます。
2025年10月26日 三位一体後第19主日
説教題:祝福と喜びの互恵関係を生きる
聖書: ローマの信徒への手紙 15:22–33、イザヤ書 56:1–8、詩編 65、ヨハネによる福音書 10:11
説教者:石田学
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教会には牧師がいる、それが当たり前だと思ってきました。しかし今、その当たり前が失われ、教会に牧者がいない現実が広がっています。日本のナザレン教会は、いまおよそ20%の教会が専属牧師のいない状態です。そうなった大きな要因の一つは牧師職に魅力を感じて心動かされないからです。牧師がいなければ教会は成り立たないというわけではありません。しかし、牧師であること・牧師がいることの祝福と喜びがあるのは確かです。牧者が教会から受ける祝福と喜びとは、どのようなものでしょうか。教会が牧者から受ける祝福と喜びとは、どのようなものでしょうか。きょうわたしたちはローマ書15:22−33を読みました。パウロはローマに行ったことがなく、教会もパウロが始めたわけではありません。しかしパウロは、牧者としてローマを訪れるつもりであることを告げるのです。パウロは、牧者と教会が祝福と喜びの互恵関係にあることを明らかにします。もちろんパウロはローマにずっと居続ける牧者であることはできません。しかし、牧者としてローマにいる間は、相互に祝福と喜びがあると確信しました。牧者としてパウロは24節で「あなたがたと共にいる喜びを味わう」と告げ、32節では「喜びのうちにあなたがたのところに行き、憩う」のだと語ります。他方ローマ教会はパウロから「キリストの祝福を溢れるほど」豊かに受け、牧者パウロのために祈り、一緒に戦うことが教会の喜びであると告げられます。この祝福と喜びの互恵関係は、パウロとローマ教会だけのことではありません。時代と場所を超えて、牧者と教会の間にはこの互恵関係が存在しています。この互恵関係があれば、牧者は牧者だからこその祝福と喜びを抱くことができ、教会はキリストの祝福を牧者から溢れるほど豊かに受け、牧者のために祈り、牧者と共に信仰の戦いを続ける喜びを抱くことができます。この互恵関係が壊れるとき、牧者はその職務の祝福と喜びを感じられず、教会は牧者を喜びとし、支えて共にキリストに仕えることをしなくなります。わたしは40年少々にわたり、小山教会から祝福と喜びを与えられてきました。この教会で皆さまとの交わりを持つことが、わたしの尽きぬ喜びでした。たとえ心身も信仰も疲れ果てても、教会で癒され憩うことができました。教会の皆さんはどうであったのか、それを判断するのは皆さんのすることです。しかし確かなことは、わたしは心を尽くしてキリストの祝福を語り伝えてきました。皆さんはわたしたちのために祈り、教会の働きを共に担ってくださいました。いまわたしはその勤めを後任の牧師に託しました。だが確信しています、祝福と喜びの互恵関係がしっかり引き継がれていると。皆さんはどうぞ、この教会で祝福と喜びの互恵関係を生きてください。
2025年10月19日 三位一体後第18主日
説教題:門である主イエス
聖書: ヨハネによる福音書 10:1–10、エレミヤ書 23:1–8、詩編 121、エフェソの信徒への手紙 1:3–6
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまが語ったたとえ話は、羊と羊飼いの関係性に注目したものでした。このような物語に耳を傾けていた人々の反応を確かめた後、イエスさまは「私は羊の門である」(7節)と言って、たとえ話の解説を始めました。なぜイエスさまは、門と自分を重ね合わせて欲しいと願ったのでしょうか。夏の間に牧草地で過ごす際、一時的に作られる囲いには門がありませんでした。門や門番の代わりに、羊飼いが入口を塞ぐように眠りました。羊飼いこそが、門の役割を担い、夜通し羊たちを守る存在でした。同じように、イエスさまもその門を通った人々の命を守る存在だということです。たとえ話に盗人や強盗が登場することによってその意味合いは強められています。盗人や強盗がすることは、どれもが命を傷つけることです。現代社会において私たちの命は様々な形で傷つけられ、そして損なわれています。イエスさまは、この世界において私たちの命を傷つけ、踏みにじる大きな原因となっている私たち人間の罪の支配から、私たちを救い出し、命の道へと導くために、来てくださいました。イエスさまは罪の赦しを宣言し、私たちの傷ついたこの命が回復されるという希望を私たちに告げる門です。イエス・キリストこそが、私たちに神の救いと希望を与える門です。興味深いことに、イエスさまは羊たちが門を出入りする様子を伝えました(9節)。一度だけ門であるイエスさまを通れば良いという意味ではないようです。何度も、何度も、囲いの中と外を出入りする門として、イエスさまはご自分のことを描きました。門であるイエスさまを通って、何度も出入りすることは、そういった変化を私たちが味わうことと似ています。変わっていくのは、私たちのこの目や心だと思います。門であるイエスさまを通って、出入りすることによって、私たちの世界の見つめ方が変えられていきます。門であるキリストを通して、神の愛や憐れみに触れ、神の愛や憐れみを知った私たちが、この世界を見つめる時、私たちにとって、この世界は決してまったく同じものであることなどできません。門である主イエスとの出会いは、私たちにとって単に、神が提供してくださる救いへの入口ではありません。イエスさまを通して、神の愛と憐れみを知り、神の恵みのうちに日々造り変えられる。そんな私たち一人ひとりの命を更に豊かにし、養う出会いです。
2025年10月12日 三位一体後第17主日
説教題:神は、その名を呼び続ける
聖書: ヨハネによる福音書 10:1–6、イザヤ書 45:1–8、詩編 19、コリントの信徒への手紙 一 1:4–9
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまは、羊と羊飼いの関係を伝えるたとえ話を人々に語り始めました。自分たちにとって、大切な声に耳を澄ます羊たちの姿が描かれています。このようなことを描くたとえ話として、イエスさまのこの話に耳を傾けるならば、私たちは日々、一体どんな声に耳を傾けているのかと考えさせられます。朝起きてから、夜眠るまで、たくさんの声、様々な音が私たちの耳には届きます。次から次へと新しい情報が押し寄せてきます。息つく暇もありません。このような、注意を引く文化の中で今、私たちは生きています。色々なものに注意を向けるようにと四方八方から、常に呼びかけられます。そんな社会の中で、私たちは一体どれほど、大切な声や言葉に耳を傾けることができているのだろうかと、考えさせられます。あの羊たちと同じように、今、自分たちが耳を傾けるべき、大切な声や言葉を聞き分けることができているのでしょうか。私たちはいつも様々な声に晒され、あちこち様々なものに注意を奪われています。けれども、神は諦めずに私たちを見つめ、私たちの名前を呼び続けておられます。神は私たち一人ひとりのあらゆる特徴をよく知って、愛情をもって、私たちの名前を呼んでくださっています。私たちが神に注意を向けるよりも前に、神の方が私たちにその目を注ぎ、私たちに愛情をもって、注意を払ってくださっているのです。私たちに対する神の注目が私たちにとって最も明らかになる瞬間のひとつが、毎週繰り返されている礼拝の時ではないでしょうか。神が私たちを招いてくださっている礼拝は、色々なものに注意を払うようにと要求される日常から離れて、神に心を向けるようにと招かれる瞬間です。様々なものに注意を奪われているがために、神や共に生きる人たちの言葉を、いや自分自身が心に抱く言葉さえも、うまく受け止めきれない私たちがいます。そんな現代文化の中で傷ついてしまっている私たちを神は礼拝を通して、その傷ついた部分を少しずつ回復しようとしてくださっているかのようです。愛と憐れみを中心に据えて、注意を向けることを神は私たちに促しています。普段様々な形で注意を奪われて、きちんと見つめることができなかった、周囲のものを愛と憐れみの心をもち、注意を払って、じっくりと見つめるようにと、神は私たちの名前を呼びながら、私たちにいつも促しておられます。多くのものが私たちの注意を引き付ける世界で、神が私たちに注意を向けさせ、私たちに大切なこと、必要なことをいつも示し続けてくださっているのです。だから、神の呼びかける声に、耳を傾ける注意深さを私たちはこれからも持ち続けたいと思うのです。
2025年10月5日 三位一体後第16主日
説教題:私たちは夢見る旅人
聖書: 創世記 11:10–12:9、ヘブライ人への手紙 11:1–8、詩編 121、マタイによる福音書 5:3–10
説教者:稲葉基嗣
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創世記の物語は、アブラム(アブラハム)とその家族の物語にたどり着きます。アブラムとその家族は、父親のテラが生きていた時代に、故郷であるカルデアのウルを離れて、カナン地方を目指して旅に出ました。父親のテラはその旅の途中、ハラン滞在中に亡くなってしまったようです。カナン地方を目指していたその旅の途中で、家長であるテラを失ったあと、家長となったアブラムには大きな選択が委ねられていました。テラが望んだように、カナンの地を目指すべきなのか。それとも、引き返して、自分たちの親戚がいる、生まれ故郷に戻るべきなのか。そんな彼に「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」(2節)と神が語りかけたとき、物語は動き始めます。この言葉を聞いて、将来の保証のない、先の見えない旅へと彼は出て行きました。アブラムの旅を決定的に方向づけたのは、神が彼に語りかけた言葉でした。決定的なメッセージは、「あなたは祝福の基となる」という言葉でした。神は、その祝福をアブラムやその家族を通して、全世界に伝えることを願いました。このようなアブラムの旅と、私たち教会は決して無関係ではありません。教会は、天の国を目指して、この世界を旅する神の民です。私たちの人生は、既に神の祝福に包まれているのにもかかわらず、神が「祝福であれ」と語り、私たちに祝福を注ぐのは、私たちの存在を通して、神の祝福をこの世界へと広げていくためです。暴力によって命が傷ついている世界に、癒やしと命の喜びをもたらすためです。神の祝福された世界に、神の祝福が行き届いていくという、神の夢を私たち自身が神と一緒に担うために、神は「祝福であれ」と私たちに語りかけておられるのです。神が私たちに与える約束は、私たちが祝福の源となるということでしょう。祝福の源であるということは、そこから祝福が沸き起こってきて、周囲に広がっていく、ということです。この世界の「祝福であれ」と神から伝えられている私たちから、喜びや愛や憐れみが、この世界を祝福として湧き出ていく。神は、そんな風にして、私たちを通して、この世界を祝福し、祝福に溢れた世界にしたいと願っています。ここに集う私たちと共に生きる人たちのために、顔も名前も知らない人のために、主キリストにあって、私たちは祝福の源であることができます。夢見る神の民である私たちの旅は、神の祝福をこの世界に喜びをもって分かち合っていくために、これからも続きます。
2025年9月28日 三位一体後第15主日
説教題:バベルの塔の物語は呪い?それとも祝福?
聖書: 創世記 11:1–9、使徒言行録 2:1–13、詩編 150、エフェソの信徒への手紙 4:1–7
説教者:稲葉基嗣
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バベルの塔の物語は、世界中に様々な言語がある理由を説明しようとしています。この物語は、人間の傲慢さがたくさんの言語を人々が話す状況を作り出すきっかけとなったと伝える物語として、理解されることが多いかと思います。天に届くような塔を建てることによって神のようになりたいという彼らの願いは、人の欲望や傲慢さとして神の目に映ったため、神は人間の言葉を混乱させました。けれども、この世界に様々な言語があるのは、罪や過ちの結果なのでしょうか。多様性に満ちた人々がこの世界に広がっていくことを神は喜び、そんな世界を祝福していることが創世記がこれまで強調してきたことです。言語がたくさんあることって、まさに神が願う多様性ではないのでしょうか。この物語に登場する人々は、散らされることを恐れています。彼らは自分たちが世界中に散らされないため、一つであるため、そして同じであるための試みを続けました。けれども、同じ言葉しか聞こえてこないというのは、その背後で声を上げることができない人たちがいるからです。同じとか、一つというものの背後には、沈黙や抑圧がある可能性があります。その背後で苦しんでいる人たちにとっては、同じことや、一つであることは、抑圧の道具であり、呪いです。神が願った世界のあり方は、一つであるとか、同じであることを誇るのではなく、彩りが豊かな、多様性に満ちた状態でした。だから、神は、人々が一つであり、同じであることを目指した、この物語において、人々が用いる言語を多様なものにしました。ひとつであることを押し付けられることにこそ、人間存在の混乱があるからです。だからこそ、人々の間に多様性を実現するバベルの塔の物語の結末は、神の祝福と希望に満ちたものといえます。もちろん、多様な人々がお互いの違いゆえにぶつかり合ってしまうことは、現実的な問題です。けれども、多様性を喜び、誰の存在も決して諦めなかった神は、歩むべき道を示してくださる方です。ひとつの考え、価値観、言葉によって、神は私たちを結び合わせようとはしません。私たち一人一人の違いを尊重しながら、聖霊によって結び合わせることによって、それぞれの違いが大切にされると同時に、 平和のうちに共に歩むことができる道を神は備えてくださいました。それは、教会の交わりにおいて実現すると、神は私たちの背中を押してくださっています。
2025年9月21日 三位一体後第14主日
説教題:どんな地図を作りたい?
聖書: 創世記 10:1-32、ヨハネによる福音書 3:16–21、詩編 117、ローマの信徒への手紙 1:16–17
説教者:稲葉基嗣
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地図は読む人の目的によって、さまざまな情報を私たちに伝えます。また、地図を作る人が込めた意図によって、様々な意味合いや強調点を持ち、地図は私たちに世界の様々な姿を見せてくれます。そう考えると、地図はこの世界のありのままを映し出しているわけではなく、私たちの世界の見え方や、見て欲しい世界のあり方が表現されているといえます。創世記10章は、言葉によって地図を描いています。一見、これは系図のようですが、縦ではなく、横に長い系図です。ノアの孫たちの名前は、民族名や地域の名前をあらわす名前になっています。そのため、世界に広がったノアの孫たちが、様々な民族や地域の名前の由来となった、という説明を提供する系図となっています。その意味で、これは言葉によって作り出された世界地図のようなものでした。この地図は、1人の人や1つのグループによって作り出されたものではありません。この地図は、いくつかの地図を組み合わせてできたものです。その意味で、ひとつの視点からではなく、いくつかの視点が重なり合って、多層的で、色々な見方ができる地図として、この地図は成り立っています。人々が世界に増え広がったことが、この世界地図が持つメッセージです。創世記1章において「産めよ、増えよ」という祝福は、すべての人に与えられました。あらゆる民族、あらゆる地域に住む人々、あらゆる言葉を話す人たちがこの祝福の言葉の対象であるため、この地図はとても平等な見方をしています。古代イスラエルを苦しめた帝国も、あまり知られていない民族も、資料を残さなかった民族も、この世界地図には含まれています。神の祝福の結果、この世界に増え広がった民族のひとつとして、すべての民族を平等に描こうとしています。私たちは自分たちが生きるこの社会やこの世界に、そして日常の中に、どのような地図を描くべきなのでしょうか。お互いの命を喜び合い、神の祝福を誰もが実感し、楽しむために、私たちはどんな地図を作るべきなのでしょうか。結局のところ、ひとりの力で、誰か特定の人たちの力でこの世界や、私たちの生きる社会に、地図を作ろうと思うと、どうしても無視されてしまう声、踏みにじられてしまう人たちがいます。私たちに必要なのは、多くの人と語り合い、その声に耳を傾けながら、お互いの地図を重ね合わせて、地図を作っていくことです。その結果、カラフルでたくさんの発見がある地図が出来上がるならば、何と素敵なことなのでしょうか。