うれしーーーーい!
なんと北村さんが2度目の登場です!
まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。
今回は、新生北村!
新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。
成功を恐れる経営者の、
誰にも言えなかった本音がここにあります。
あなたは今、何と戦っていますか?
その答えが、この配信の中にあるかもしれません。
1.「俺の方がすげえ」
あなたは今、何と戦っていますか?
「俺の方がすげえ」
かつて北村さんの心を支配していた、この言葉。
大企業で出世競争に明け暮れ、
ベンチャー企業の「C◯◯O」という
肩書きを名刺に刻むことが人生のゴールだった男。
成功している人を見ては比較し、
自分の価値を測り続けていた。
でも今、彼は全く違う戦いをしています。
「他人」ではなく「自分」と戦う日々へ。
2.「このままでいいのか?」
現在、50社の顧客を抱え、契約率は驚異の30%(業界平均3%)。
一件一件の仕事に真剣に向き合い、
目の前の人を大切にする。
そのサイクルが「あったかい」と北村さんは言います。
順風満帆に見えるビジネス。
なのに、なぜ彼は不安なのか?
「大きな成功を手にした時、
また昔の自分に戻ってしまうんじゃないか?」
この番組で語られるのは、
成功者の華やかな物語ではありません。
むしろ、成功を恐れる経営者の正直な葛藤です。
3.「友達不要論」から
「大切な人を大事にする」へ
かつて効率を追求し、
人間関係さえも
コスパで測っていた北村さん。
それが今では
「誰かのために何かをする楽しさ」を知り、
「酒がうまい」と感じる瞬間を
人生の指標にしています。
でも、彼はこう言うのです。
「油断すると、また変わってしまう気がする」
この価値観の転換は、どうやって起きたのか?
そして、なぜ彼は「満心」を警戒し続けるのか?
4.一度は全てを失った経営者が、
たどり着いた"本当に大切なもの"とは?
大きな仕事を取れば取るほど、
心は不安になる。
成功すればするほど、
失うことが怖くなる。
「このままでいいのだろうか…」
50歳を過ぎ、一度は廃業を経験した北村さん。
再び起業した今も、心の奥底に迷いを抱えていました。
5.成功の裏に隠された"ビビり"の正体
個人事業主として、3年半。
順調に見える日々の中で、
北村さんは大きな矛盾を抱えていました。
「大きな仕事は取りたい。でも、取った時にビビってしまう」
なぜなのか?
それは、太いご縁が切れる恐怖。
安定を手に入れた瞬間に、
それを失う不安が襲ってくる。
そして何より、自分の"器"への自信のなさ。
50歳を過ぎて一度失敗した自分に、
本当にそれだけの価値があるのか—
6.対話の中で見えてきた"本質"
しかし、対話を重ねる中で、
北村さんの表情が変わり始めます。
「仕事がある喜び」
創業時につけた会社名「Work Be」に込めた想い。
それを語る時、
北村さんの目は自信に満ち、
声にはエネルギーが溢れていました。
仕事は単なる収入源ではない。
人を成長させ、
自己実現のツールであり、
そこで作られる関係性に人生がある。
営業で何度も断られ、
「向いていない」と思った日々。
それを乗り越えた先にあった、
絶大なる成長とやりがい。
7.たどり着いた答えは、
驚くほどシンプルだった
「それだけでいい」
大きい仕事も小さい仕事も、
法人化も個人事業も— 実は、
それらは本質ではなかったのです。
北村さんが本当に大切にしたいもの。
それは「仕事がある喜び」を伝え続けること。
成功する前の絆奏が大切。
結果が出ないからと辞めてしまう人たちに、
働く喜びを伝えたい。
対話の最後、
北村さんの顔は驚くほどすっきりしていました。
8.50年かけて気づいた"本当の価値"
「もっと早く気づけば良かった」
そう笑う北村さんですが、
50年かけて気づいたからこそ、
その価値観の変化は本物でした。
一度は全てを失った経験。
それがあったからこそ、
仲間のありがたさ、
支えてくれた人たちへの感謝、
そして「仕事がある喜び」の尊さに気づけたのです。
9.聞いてください:本音の経営論
北村さんの言葉から
「結局、正直に自分を見つめた時、
良かったかどうか。
仕事も人生の一部。
分けてないんです」
「昨年の自分に勝つ。
これが僕なりのゴール」
「成功体験に溺れてしまうリスク。
大きな仕事が取れた時、
また曲がってしまうんじゃないか」
10.聴けば分かる、
"本物の気づき"が生まれる瞬間
この配信では、
リアルタイムで北村さんの表情が変わり、
声のトーンが変化し、
エネルギーが満ちていく様子が分かります。
コーチングの対話を通じて、
一人の経営者が自分の本質にたどり着く17分間。
計算された成功ストーリーではない、
生々しい人間の変容の物語がここにあります。
ひとりひとりの人生「オンリーワン」
北村さん回 - 50歳からの再起、そして気づき
今すぐ再生して、本物の"気づきの瞬間"を体験してください。
「余計なことは考えない。
仕事がある喜びを、
これからも伝えていきたい」
うれしーーーーい!
なんと北村さんが2度目の登場です!
まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。
今回は、新生北村!
新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。
北村さんの人生物語は、まだ完結していません。
法人化という新たなスタートラインに立つ彼が、
これまでの3年半の経験をどう語り、
そしてどんな未来を選ぶのか──
今回の人生物語で明かされること
― 数千万円を失った絶望からどう立ち直ったのか?
― 97%の断りをどう乗り越えたのか?
― 「友達不要論者」から「仲間こそ全て」への価値観の大転換
― 法人化を前に揺れる本音と、これからの選択
そして何より──
成功した後に訪れる「本当の迷い」をどう乗り越えるのか
1.二度目の挑戦、それは絶望からのスタートだった
北村さんは、かつて数千万円の早期退職金を全て失い、廃業という痛恨の経験をしています。
高校時代、うまく陸上で推薦を受けながら、自分のパフォーマンスを発揮できなかった時から、彼の人生は「うまくいった瞬間にこける」パターンを繰り返してきました。
愛知県から東京へ、
そしてグループ全体の責任者へ ──
20年間積み上げたキャリアは、
上司との衝突で一瞬にして崩壊。
そこから始まった再起への道。
それは想像を絶する厳しさでした。
2.97%の「NO」と向き合う日々
ゼロから顧客を作る。
ペンネーム「Work Be」として活動を始めた北村さんを待っていたのは、月100件のうち、97件に断られるという現実でした。
そう97%も断られ続けたのです。
普通なら心が折れる数字です。
しかし、彼は歩み続けました。
Work Be売上推移の数字だけ見れば成功です。
でも、北村さんは今、迷っています。
3.「このままでいいのか?」法人化の決断に揺れる心
株式会社として正式に歩み出す──
人生に一度あるかないかの節目。
嬉しいはずのこの瞬間に、北村さんは立ち止まります。
「一定作りたい世界は作れた」
「でも、過去を振り返ると、そう思った瞬間にこけてる」
成功体験がトラウマになる。そんな矛盾を抱えながら、彼は自問します。
このやり方を続けることが、本当に正しいのか?
4.3年半で掴んだ「本当の宝物」
数字、実績、安定した生活──それらを手に入れた北村さんが気づいたこと。
それは、**「仲間の存在」**でした。
97%断られる中で出会った仲間たち。
一緒に仕事を取りに行く相棒。
支えてくれる友人たち。
「組織にいた時は、同僚や後輩がいるのが当たり前だった。でも今は違う。1人だからこそ、仲間の存在の大きさが分かる」
かつて「友達は踏み台」と言い切っていた男は、今こう語ります。
「全ては仲間がいて実現している」
5.80点から90点への挑戦──
彼が選ぶ次のステージとは?
0点から80点への道のりは険しくとも、確実に前進できました。
しかし、80点から90点へ──この10点が、最も難しい。
「3年続けることには可能性がある。
でも、同じことを10年続けることが正解なのか?」
法人化という節目を前に、北村さんは新たな決断を迫られています。
6.人生は、うまくいった時こそ試される
仕事がうまくいった日。
北村さんは一人で飲みに行きます。
それは、自分への問いかけの時間。
「慢心していないか?」
「大切な人を大切にできているか?」
7.かつて「友達不要論者」だった男の告白
「なんで分かってくれないんだろう」
「自分が正しい、自分が一番できる」
北村さんは、そんな風に考えていた時代を振り返ります。 客観的に見ると「つまんないやつだった」と。
そこに戻りたくない。
その強い思いが、今の彼を支えています。
8.廃業という転機が教えてくれたもの
厳しい廃業を経験し、
必死で生きていく中で、
気づいたら価値観が変わっていた。
今、北村さんが大切にしているのは2つ。
①大切だと思う人を大切にできること (スターになりたいわけじゃない)
②相手を思う気持ち (プレゼントを渡す前に考えている時間が楽しい)
50歳を過ぎて気づいた、この喜び。
9.成功の陰にある、静かな悩み
「いいやつの後ろには、いいやつがいる」
多くの人に支えられ、濃厚な時間を過ごす日々。
でも、人が増えれば一人当たりの時間は減っていく。
アクセルを踏むのか ?
ブレーキを踏むのか ?
次の予定が入ってしまい、
ちゃんと御礼を言って、帰れなかった日。
振り返って、悔いが残る。
成功している人だからこそ抱える、
関係性の総量という悩み。
10.3年後も笑顔でいるために
「なんで分からないんだろう」と思っていた自分には、
油断すると戻ってしまう危機感がある。
だから、今日も問い続ける。
大切な人を大切にできているか、と。
プライベートでも、仕事でも、
疲れた顔ではなく、笑顔でいたい。
それが、北村さんの願いです。
11.相手を思う気持ちを忘れてないか?
自転車操業から抜け出し、
今は多くの人に支えられながら
充実した日々を送る北村さん。
その言葉の端々には、
失敗を経験した人だけが持つ深みと優しさがあります。
「相手を思う気持ち」が何より大切。
そう語る彼の笑顔の裏には、
戻りたくない過去と、
守りたい今があります。
12.今すぐ視聴
人生の転機を経験したすべての人へ。
北村さんの率直な語りが、あなたの心に響くはずです。
「このままでいいのか?」と悩むすべての人へ贈る、リアルな再起の物語
第2回では「油断すると戻ってしまう」という危機感について、
さらに深く語ります。お楽しみに。
「辛いからこそ、楽しさが増すんです」
42.195kmを走り切る苦しみ。
山頂を目指す険しい道のり。
それでも、また挑戦したくなる理由。
今回の「オンリーワン」では、 ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて人と人を繋ぎ続ける樫村さんの人生に迫ります。
1.体調不良をきっかけに気づいた「本当の健康」とは?
「心臓に良くないと思っていたんですよ」
そう語る樫村さんは、かつてランニングを避けていました。
体には自信があり、大きな病気もしたことがない。
そんな彼の人生が大きく変わったのは、2019年の出来事がきっかけでした。
韓国旅行から帰国後、突然襲った「帯状疱疹」。
痛くて眠れない夜。
「こんなにしんどいのか」と初めて自分の体の限界を知った瞬間でした。
医師から告げられた言葉は「ストレスから来ているのでは」。
自分は健康だと思っていた。
でも、そうじゃなかった―。
2.夏の夜、山下公園で始まった小さな一歩
人生の転機は、意外なところから訪れます。
ビジネスで交流のあった小池さんが、夜な夜な山下公園でランニングをしていることを知った樫村さん。
興味はなかったけれど、「これも何かのご縁かな」と思い、一緒に走ってみることにしました。
夏の夜風。
汗をかいた後の、立ち飲みの焼き鳥屋でのビール。
「ラン後のビールが、めちゃくちゃ美味しくてですね・・」
そこから始まった小さな習慣が、やがて450人のコミュニティへと成長していくことになるとは、誰が想像できたでしょうか。
3.「旗の下に人が集まる」―ラン部誕生秘話
2人から3人へ。
そして徐々に仲間が増えていく中で、樫村さんたちは「グローバル人事塾RAMVE」を立ち上げます。
「ラン部だと、よくわかんないから、ローマ字でRANVEにしよう」
「RANVEの「V」はビクトリーのVですね」
デザイナーに依頼して作ったロゴマーク。
そして、人事塾同様のサイズの旗。
「旗の下に人が集まるっていう本能を考えて、なんと旗も製作」
旗の製作費を捻出するため、小池さん企画:村田さんへ講師を依頼し、
ランニングセミナーを開催。
コロナ禍の2020年、オンラインで集まった参加費で、ついに旗が完成しました。
4.健康、つながり、そして人生の豊かさ
「足は動くんで」
右肩を脱臼する自転車の事故に遭われたも関わらず、樫村さんは近くハーフマラソンに出場する予定です。
樫村さんがランニングに見出したものは、単なる健康維持だけではありません。
・島を走り、山を走り、現地のランナーたちと出会う。
・旅先で見る景色。
・仲間との語らい。
「人生の豊かさを広げてくれる」
そして、樫村さんにとっての豊かさとは―
「人と人との繋がりの中で生まれるもの。
自分から進んで動いた結果として、自然につながっていく関係」
5.フルマラソンの苦しみの先に見つけた、人生の真理
「辛いからこそ、楽しさが増すんです」
樫村さんは、42.195kmを走り切る苦しみについて、そう語り始めました。
フルマラソンを走っている最中は、むちゃくちゃ辛い。
めちゃくちゃしんどい。
でも、最後まで走り切った時の達成感と楽しさがあるから、やめられない。
そして、その感覚はマラソンだけでなく、人生のすべてに通じている。
40代で出会ったランニングが、樫村さんの人生を大きく変えました。
ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて、新しい出会いが生まれ、その繋がりが次の繋がりを呼び、気づけば出版の話まで舞い込んでいたのです。
『「RANVE」に誘った難波さんのご縁で大村さんと出会いました。そこから繋がっていったんです』
そう『副業の超基本』です。
樫村さんの言葉には、人との出会いへの感謝と、その偶然の連鎖への驚きが込められていました。
6.すべての行動の中心にある、たった一つの軸
仕事、出版、ランニングコミュニティ、グローバル人事塾、そして昨年からスタートしたランニングチーム。
一見バラバラに見える活動の数々。
しかし、それらすべての中心には、たった一つの明確な軸がありました。
「繋がりを作る、ということですね」
樫村さんは、自分の人生にとって最も大きなキーワードは「繋がり」だと語ります。
それは、マンダラチャートの中心に置かれた言葉のように、すべての活動を支える核となっているのです。
自分自身が繋がりたいという思いもある。
でも、それ以上に、誰かと誰かを繋ぐことで得られる喜びが大きい。
樫村さんは、繋がりを作るエンジンのような存在として、多くの人々の人生に関わり続けています。
しかし、その繋がりには、大切な条件がありました。
「無理しない中で、自然に繋がる人との関係性を大切にしていく。
気がついたら一緒にいるよね、という人たちとの関係が、人生にとって一番大事なんです」
無理して作った関係ではなく、自然に繋がっていく人たち。
そういう人たちとの出会いが、次の扉を開いていく。
樫村さんの人生は、まさにその連続でした。
7.60歳までに叶えたい、世界を駆け巡る夢
話が進むと、樫村さんの表情が、ふと笑顔に変わりました。
その笑顔の意味を尋ねると、樫村さんが60歳までに叶えたい夢を語り始めたのです。
世界6大マラソン、アボット・ワールドマラソンメジャーズ。
ボストン、ニューヨーク、シカゴ、ベルリン、ロンドン、東京。
この6つの大会を完走することで得られる、6つの輪がある星のフィニッシャーメダル。60歳までに、それを手にすることが目標なんです。
「海外だと、イタリアとか、ドバイとか、ケニアも走ってみたいですね。
世界中のレースに出てみたいという気持ちがすごくあります」
樫村さんの目は、まるで既にその景色を見ているかのように輝いていました。そして、その夢は個人的なものだけではありません。
ランニングチームで、海外ツアーもやってみたい。
仲間と一緒に、世界を駆け巡りたい。
そんな未来を描いているのです。
8.今から準備する、もう一つの人生の楽しみ方
しかし、樫村さんは同時に、現実的な視点も持ち合わせていました。
「今はある程度健康だから継続できているけれど、
健康でなくなった時には継続できなくなることもある。
だから、体が動かなくなった時に楽しめるものを、
今から見つけておくことも、
人生において大切なアクションだと思うんです」
それは囲碁かもしれない。
ゆっくりとしたハイキングかもしれない。
あるいは釣りかもしれない。
今の激しい趣味の先に、もう一つの人生の楽しみ方を見据える。
その先見性こそが、樫村さんの人生を豊かにしている要因の一つなのでしょう。
「この先のことは正直わからないですね。
でも、どこかのタイミングで、また何か40代でランニングに出会ったような、全く新しい世界に触れるかもしれない。
そういう予感はあります」
9.辛さと達成感が織りなす、人生の真理
話は再び、マラソンの話に戻りました。
フルマラソンを走っている時は、本当に辛い。
でも、その辛さがあるからこそ、
走り切った後の達成感は格別なのだと。
「こんな辛いことに耐えて、
まだまだいけるじゃん、って自信に繋がるんですよね」
打ち合わせで悩んだり、
どんなことをやろうか考えたり、
辛いこともある。
でも、終わってビールを飲んでいる時に
「今日良かったな」という言葉が出てくると、
すごく達成感が湧いてくる。
「頑張りすぎずに、
でもやり切るまでがんばってみる。
やりたいことをやるということを、
日々積み重ねていきたいんです」
樫村さんのこの言葉には、人生を楽しむための絶妙なバランス感覚が表れていました。
10.あなたの人生の中心にあるものは、何ですか?
樫村さんの「繋がりをつくる」という軸。
その軸があるからこそ、自然と行動が繋がり、人生が豊かになっていく。
「自分の中での達成感や満足感も必要だけど、
やっぱり、誰かにそこで認められたり、
応援されたりすると、より達成感が増すんですよね」
樫村さんの最後の言葉は、人との繋がりの本質を表していました。
11.この配信があなたに届けるメッセージ
人生は、一つの行動から始まります。
そして、その行動が人との繋がりを生み、
新しい出会いを呼び、
予想もしなかった未来へと導いていきます。
樫村さんの人生は、無理しない繋がりと、
挑戦し続ける姿勢が、いかに人生を豊かにするかを教えてくれています。
40代で出会ったランニングが、出版へと繋がり、
新しいコミュニティへと広がっていく。
その連鎖は、決して計画されたものではありません。
自然に繋がっていった結果なのです。
・辛いからこそ楽しい。
・苦しみの先に達成感がある。
・仲間がいるから頑張れる。
そして、その経験が自信となり、次の挑戦への原動力となる。
この配信を通じて、あなたも自分の人生の中心にある軸を見つけてみませんか?
あなたのマンダラチャートの真ん中に置くべき言葉は、何でしょうか?
記念すべき100回目の配信は、いつも大変お世話になっている樫村さんです。パチパチパチ
「今日、生きていてよかった」と思える樫村さんの人生物語を配信しました。
1.いじめっ子だった少年が、人と人とを繋ぐリーダーになるまで
いつもエネルギーに溢れ、行動力が半端でない樫村さん。
ゼスト株式会社代表取締役、一般社団法人グローバル人事塾では、どんな場面でも、優しく場をまとめる“兄貴分”的な存在です。
けれど――
彼の人生を深く聞いてみると、まったく違う顔が見えてきました。
横浜で生まれ、大阪、横須賀と転々としながら、
常に「水」がそばにある生活環境で育った樫村さん。
子供時代はガキ大将、学生時代は引っ込み思案、そして社会人では独立されて人を導くリーダーへ。
55年以上の人生で培われた、
**樫村さんの「本当の強さとやさしさ」**を、
あなた自身の耳で確かめてください。
2.幼い日のトースター事件
「幼稚園の頃、お腹が空いて、
自分でパンを焼こうとしたんです。
そしたら、トースターが燃えちゃって…」
幼い樫村さんは、
目の前で火があがるのを
ただ見ていることしかできなかった。
どうしたらいいか、わからなかった。
「両親がそばにいない寂しさ。
何もできない無力感。」
その光景は、50年以上経った今でも鮮明に記憶に残っています。
それは、樫村さんの人生に繰り返し現れる「原体験」だったのかもしれません。
3.両親の離婚、そして“何もできなかった”悔しさ
小学1年生のとき、両親の喧嘩。
父が母に手をあげ、幼い彼はその場に立ち尽くしました。
「悲しい。辛い。でも、どうすることもできない。」
母をかばいながら、その無力感が胸に焼きつきました。
愛情を求めても、うまく届かない。
そんな“寂しさ”が、彼の中に静かに根をおろしました。
4.引っ込み思案の学生時代
学生時代の樫村さんは、あなたが今見ている姿とは正反対でした。
2〜3人の決まった友人としか遊ばない、非社交的な若者でした。
「えっ、あの樫村さんが!?」
そう、信じられないかもしれません。
毎日ライブハウス・レコード店に通い、音楽に没頭する日々。それは社会への反抗でもあり、現実からの逃避でもありました。
「掴みどころのないありふれた人間」――
周りから見れば、**「何者なんだ?」**という存在。
「自分が好きになれなかった」
孤独な人生。
深い人間関係を築けない苦しさ。
30代半ばまで、そんな日々が続きました。
あの人を惹きつける笑顔も、愛嬌のあるトークも、実は“努力の結晶”だったのです。
5.しかし、そんな彼が変わった理由とは?
「愛情に飢えていた10代」「寂しがり屋とリーダー、両方の顔を持つ矛盾」「2008年4月、起業という決断」
樫村さんの人生には、私たちが学ぶべき**"何か"**があります。
それは、過去のトラウマや弱さを抱えながらも、
人生を切り開いていく勇気と行動力です。
6.43歳、人生が変わった瞬間
「目立つのは嫌いだった。
でも、どこか自由なアウトローに憧れていた」
今では「とても社交的ですね」
「コミュニティづくりが得意ですね」と言われる樫村さん。
しかし、20代・30代の彼は、まったく違う人間でした。
2013年、樫村さんが43歳のとき、すべてが変わりました。
きっかけは、
GCDF(グローバル・キャリア・ディベロップメント・ファシリテーター)という国際資格。
資格取得後の継続学習プログラムを見て、彼は思いました。
「高すぎるセミナー費用。これに毎月何万円も払うのか…?もっと安価で受講できるプログラムはないのか・・?」
そして、ある決断をします。
「だったら、自分で継続学習の場を作ればいいんじゃないか」
7.「グローバル人事塾」誕生
2023年、樫村さんは『人事の力で世界をかえる!』をビジョンに「グローバル人事塾」を立ち上げます。
最初はたった3人でスタートし、
今では50名の有志・仲間が支えてくれている。
月2〜3回、全国で10数年以上継続する人事コミュニティへと成長しました。
でも、本業の時間を削って人事塾を存続させる意味はあるのか?と道半ばで自問自答しながらも、樫村さんは続けることができたのでしょうか?
理事の松田さん曰く、「気合と根性と樫村の3Kで継続しているのがグローバル人事塾」。
そう笑って答える樫村さん。
でも、その裏には深い"生きがい"がありました。
8.インテリジェンス(現パーソル)時代に見た"不幸なマッチング"
インテリジェンス (現パーソル)での横浜支店長時代、
営業をしながら採用も担当していた樫村さん。
そこで彼が目の当たりにしたのは——
「どんなに優秀な人材を採用しても、
すぐに辞めてしまう現実」
それは単なる採用ミスではなく、
"その人に合う環境設定がなされていなかった" という組織の問題でした。
「この不幸なマッチングをなくしたい」
その想いが、独立後の人材紹介事業をはじめるきっかけになった。
そして人事担当者を育てる「グローバル人事塾」の設立へとつながっています。
9. 「今日、生きていてよかった」と思える瞬間
グローバル人事塾の継続の秘訣を聞かれた樫村さんは、こう答えました。
「生きている実感がするんです」
参加者からの
「すごく良かったです」
「明日から実践できます」という一言。
全国各地で開催しているグローバル人事塾での、参加者の笑顔。利益でも、損得でもない。
精神的なご褒美が、彼を突き動かしていたのです。
「周りが理解できなくても、自分が使命感を持ってやる。それがものすごく大事なことなんです」
「実は永年のビジネスパートナーがきっかけで49歳で出会ったランニングもそうなんですよ」
人事を変え、社会を変え、自身も変え続ける樫村さん。
利益じゃない。損得じゃない。
人を動かし続ける本当の原動力とは——
今すぐ視聴して、あなたの明日のヒントを見つけてください。
『オンリーワン』で語られる、“人生の本音”
いじめっ子だった少年が、やがて人の心に寄り添うリーダーになるまで。
どんなきっかけで、彼は変わったのか?なぜ今、仲間を大切にするのか?そして――彼の中にある“寂しさ”は、どんな形で昇華されたのか?
そのすべてが、『オンリーワン』で語られています。
聴き終えたあと、きっとあなたも自分の人生を振り返りたくなるはずです。
樫村さんの物語は、どこかあなたの心にも“流れ”を生み出してくれます。
1. あの日見つけた父の手紙が、人生を変えた ―
「1日1秒を、命だと思って生きている人はどれくらいいるだろう?」
会社員として多忙を極め、ストレスを酒で流しながら過ぎていく日々。
そんな大村さんの人生が、一通の手紙で一変します。
それは、41歳という若さで亡くなった父が、
亡くなる数ヶ月前に書いた「最後の手紙」でした。
「もっと生きたかった。1秒でも長く…」
その言葉を目にした瞬間、
彼は初めて“父と繋がった”と感じたと言います。
そして気付くのです。
自分が浪費してきた時間こそが、父の望んだ“生きたかった時間”だと。
その日を境に、彼はお酒を断ち、
「命を使う=使命を生きる」という生き方へと舵を切りました。
そこから始まった人生の再構築。
学び、出会い、コミュニティ、そして――出版。
📘 初著『片付けパパの最強メソッド』は、
「部屋から人間関係、そして人生まで整える」というコンセプトで誕生。
講演で出会った編集者の一言がきっかけでした。
偶然か、必然か。
コロナ禍で空いた時間が、彼の人生の“使命”を形にするために用意されていたように。
「命とは時間」
「使命とは、命をどう使うか」
大村パパさんの言葉には、体験からしか出てこない重みがあります。
2.【命=時間】亡き母が教えてくれた“人生の本質”
あなたは、「命とは何か?」と聞かれたら、どう答えますか?
大村さんがその答えに出会ったのは、母を看取った日のことでした。
病室で、静かに息を引き取る母を前にして——
「時間が止まったような空間」がそこにあった。
その瞬間、大村さんは悟ったのです。
「命って、“時間”のことなんだ。」
その気付きが、すべての始まりでした。
父、母と相次いで見送った経験。
後悔、喪失、そして静かな確信。
「命とは時間。
そして、時間を大切にすることこそ、人を大切にすること。」
それ以来、大村さんの人生は180度変わりました。
仕事も人付き合いも、「どう時間を増やせるか」で考えるようになったのです。
ある時、ホームページの設定に1日かかりそうな作業を、
ITに詳しい友人が30分で解決してくれた。
その瞬間、大村さんは気づきます。
「あ、人と人が“得意”を分け合えば、時間を増やすことができるんだ。」
それ以来、大村さんはこう呼んでいます。
お互いの時間を増やし合える人を——「仲間」と。
彼の活動はすべて、この哲学に貫かれています。
講演も、本の執筆も、そして「まんせきBar」という交流の場も。
そこには、単なるビジネスの話ではなく、
「どうすれば命(=時間)を豊かにできるか」という問いが流れています。
3.「副業の超基本」──10年前の自分に届けたい1冊
「副業を始めたいけど、何から手をつけたらいいのか分からない」
「本業が忙しくて、時間もエネルギーも残っていない」
そんな方々のために大村さんは、樫村さんと一緒に『副業の超基本』を12月5日に出版されます。
3.1 サラリーマンを続けながら、副業を10年
大村さんは某大手電機メーカーでマーケティング、そして現在は人材開発を担当。平日は会社員として働きながら、もう10年以上“副業”を続けてきました。
言葉で言うのは簡単ですが、現実は甘くありません。
時間は限られている。
家族との時間、体力、そして心のバランス。
それでも彼は、**「副業で人生を整える」**道を歩み続けてきました。
それは、単なるお金稼ぎではなく、
**「自分の生き方を整えるもう一つのキャリア」**だったのです。
3.2 手探りの10年で気づいた“近道”がある
「副業を始めた頃、正直、何もわかりませんでした。」
と語る大村さん。
だからこそ、この本には、
**10年前の自分が読みたかった“地図”**が詰まっています。
「無駄な時間を使ってほしくない」
「遠回りじゃなく、近道を選んでほしい」
経験者だからこそ言えるリアルな“超基本”。
それはネット検索では手に入らない、
実践者の知恵と、誠実なリアルを書かれています。
3.3 副業は「がんばる」より「整える」
この本は、副業ノウハウ本ではありません。
それは、大村さんが“片付けパパ”として提唱してきた哲学とつながっています。
「部屋が整えば、人生も整う」
「副業も同じ。やみくもに動く前に、自分を整えることが大事」
副業は「足し算」ではなく、「引き算」。
やるべきことよりも、やらなくていいことを見つけること。
その結果、時間が生まれ、人生が動き出す。
3.4 読む人へのメッセージ
『副業の超基本』は、
「副業で人生を変えたい」すべての人へのガイドブックです。
・副業を始めたいけど、何からすればいいか分からない人
・今の働き方にモヤモヤを感じている人
・自分らしい生き方を取り戻したい人
そんな方のために執筆されています。
📘 『副業の超基本』
著者:大村 信(片付けパパ)、樫村 周磨
発売日:2025年12月5日
今さら聞けない 副業の超基本:知識ゼロ 経験ゼロから始める (今さら聞けない超基本シリーズ) | 大村 信夫, 樫村 周磨 |本 | 通販 | Amazon
10年前の自分に教えたい、最短の道。
遠回りしないための“整える副業術”。
「遠回りしたくない人」に届きますように。
あなたの時間を、大切にするための1冊です。
4.「時間が足りない」と感じたら聴いてほしい、人生の近道の見つけ方
今回のポッドキャストでは、
大村さんの“人生の軸”がどのように生まれ、
どう現在の活動につながっているのか——
まるで一冊の自伝のように語られています。
「この瞬間、僕らは命を分かち合っているんですよ。」
そう語る大村さんの声には、
時間の重みと、優しさが滲んでいます。
もしあなたが今、
「時間が足りない」
「やりたいことが進まない」
と感じているなら——
このエピソードは、あなたの“時間の感覚”を変えるかもしれません。
時間は限られていない。
私たちは、増やし合うことができるのです。
「マクドナルドに授業を抜け出して行ったのが、人生で一番の悪事かもしれません」
そう笑って語るのは、整理収納アドバイザー1級とキャリアコンサルタントの資格を持つ「片付けパパ」こと大村信さん。
部屋を片づけると、人生まで整っていく。
そんな話を聞いたことがありますか?
ただの整理収納アドバイザーではありません。
彼はこう語ります。
「物の片付けから、人間関係、そして人生まで整える」
そう、部屋を整えることは、自分の生き方を整えること。
そんな哲学を持つ“人生の整理人”です。
1.優しい少年が、静岡の田舎で育った日々
父親がいない環境で、おばあちゃん、お母さん、8歳離れたお姉さんに囲まれて育った彼は、「手のかからない子」でした。
子どものころの大村さんは、とてもおとなしくて素直。
女の子と遊ぶほうが安心する、
競争よりも「みんな仲良く」を願う、のび太君のような少年時代。
ところが、その背景には深い物語があります。
大村さんは幼い頃に父親が白血病で亡くなられ、
お母さんとおばあちゃん、そしてお姉さんに囲まれて育ちました。
「だから、男性には苦手意識があったんです」
——この言葉には、彼の優しさと繊細さがにじんでいます。
2.浪人、挫折、そして母への申し訳なさ──
高校時代。
時はバブル崩壊直後。
「銀座で働くビジネスパーソンの就職は厳しくなる」、「理系なら潰しが効く」という情報を信じ、高3直前に文系から理系へコース変更という無謀な挑戦。
成績優秀だった彼は、東京の大学から指定校推薦のオファーまで受けていましたが、「聞いたことのない地味な大学だから」という理由で辞退。
猛勉強の末、第一志望の大学を目指して1年間必死に勉強するも、結果は全落ち。
浪人するも、皮肉にも、1年前に推薦を断った大学に入学することに、、
「推薦で行けるって言われた大学に、
1年浪人して結局入学することになった。
この1年間の時間とお金は何だったんだ…」
普通なら絶望する状況。
使った時間とお金は何だったのか──
そう母親に謝った大村さんに、母はこう答えました。
「それが運命だったんだよ。
この1年間は無駄じゃない。
一生懸命勉強して、努力することができたことは、
きっと将来のためになる」
しかし当時19歳の大村さんには、その言葉を受け入れる余裕はありませんでした。
母子家庭で一生懸命支えてくれた母への申し訳なさ。
自分の選択への後悔。大学時代は不真面目に過ごしました。
3.大学での「不真面目」が生んだ、「サバイバルスキル」
入学初日こそ出席したものの、1週間後にはほとんど大学に行かなくなった大村さん。
バイトに明け暮れる日々。
でも、留年はしたくない。
そこで彼が身につけたのが──「過去問と資料を集める仲介屋」としてのスキルでした。
「これを持ってきたんで、どうですか?」
「ギブアンドテイク」
「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」
競争ではなく、仲間。
争いではなく、協力。
この「サバイバルスキル」こそが、後に彼の人生を支える核となっていきます。
4.就職氷河期、10月の決断
大学4年の10月。
周りが内定を決めている中、大村さんはまだ進路を決めていませんでした。
大学院に行こうか迷っていた彼に、親戚のおじさんが一喝。
「お前の母親、どれだけ頑張ってると思ってるんだ」
その言葉でハッと我に返り、就職活動を開始。
でも時すでに遅し──1997年の10月、超氷河期です。
しかし大村さんは、就職活動の掲示板から1社だけピックアップし、応募。
書類選考、1次面接、2次面接、最終面接──すべてパス。
SPIも受けず、1社目で内定。
「本当に偶然でした」と本人は笑います。
5.「英語喋れます」と言って入社、3週間後に海外出張
最初の会社で3年、システムエンジニアとして激務をこなした後、転職。
2社目の面接でまた言ってしまいました。
「英語、喋れますよ」
入社3週間後、いきなり海外出張の辞令。
「マジか」と思いながらも、英語メールが半分以上。
必死で対応する日々。
でも、そこでまた発揮されたのがサバイバルスキル。
半年でTOEICが200点近くアップ。
海外での仕事もこなせるようになりました。
6.今につながる「仲間づくり」の原点
大学時代に培った「みんなで合格すればいい」という感覚。
それは今、グローバル人事塾、まんせきBar、さまざまなコミュニティでの活動につながっています。
出版、コミュニティ運営、そして20年以上続く会社員生活──。
すべての原点は、「留年しないため」に編み出した「みんな仲良く」「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」というサバイバルスキルでした。
7.現在ー「部屋から人生まで整える」という使命
挫折と葛藤を経験した大村さんは今、大手電機メーカーでマーケティングから人材開発へ。
そしてパラレルキャリアとして「片付けパパ」として活動しています。
物の片付けから、人間関係、人生までを整える。
「物が散らかっていると、生活も散らかる」
子ども時代の"整えられない感情"、
受験失敗という"整理できなかった選択"、
母への想いという"片付けられなかった気持ち"ー
それらすべてが、今の彼の使命に繋がっています。
優しすぎた少年は、どのようにして「人生を整える専門家」になったのか。
ぜひ大村さんの本を読んでみて下さい。
彼の物語は、失敗や挫折を経験したすべての人への、温かいメッセージです。
挫折、絶望、そして再起。
何度も壁にぶつかりながら、
自分の道を切り開いてきた柳沼さんの人生ストーリー。
✅ 失敗を恐れず挑戦する勇気
✅ どん底から這い上がる強さ
✅ 本当の「自立」とは何か
この物語は、あなたの人生にも勇気と希望を与えてくれるはずです。
高卒・学歴なし。体力だけが武器。22歳の彼が、なぜ今「幸せな働き方」を企業に教える存在になったのか?
1.「お前、元気そうだな」──
たった15分の面接が運命を変えた
高校卒業間際。
就職活動もせず、進路が決まらないまま焦る日々。
そんな時、友人の父親の紹介で出会った電気工事会社の社長。
「体を動かすのが好きか?」
「はい、それしかできません」
「よし、合格」
わずか15分。
歩いて2分の距離にある会社で、彼の職人人生が始まった。
2.東京ビッグサイト、幕張メッセ──
2〜3ヶ月に1回の休み?戦場のような現場
展示会の仮設電気工事。
スポットライトを設置し、コンセントを這わせ、1〜2日でブースを完成させる。
会期が終われば即日には撤去。
深夜から次の展示会の準備。
徹夜は月に何度も。
休みは2〜3ヶ月に1回。
「見て覚えろ」の世界で、気性の荒い職人たちと肩を並べ、見えない電気と格闘する日々。
給料は20万、30万──。
大学に行った同級生より稼いでいた。
でも、それが「幸せ」だったのか?
3.「このままでいいのか?」──
22歳、心も体もヘトヘトだった
月100〜200時間の残業。
体は悲鳴を上げ、心は疲弊していく。
職人たちも疲れきっている。
不平不満が飛び交い、職場の空気は重い。
転職したくても、学歴もスキルもない。
辞めたくても、次の仕事が見つかる保証もない。
「一体この先、どうしたらいいんだ…?」
希望の見えない日々の中で、彼は大きな決断を迫られていた。
4.そして今──「真逆」を生きる選択
あの地獄のような日々があったからこそ、彼は今こう語る。
「働きがい、やりがい、生きがい──
当時の僕には何もなかった。
だから今、真逆のことをやりたいと思ったんです」
現在、柳沼さんは「Well-being HR」という事業を立ち上げ、
企業に「幸せに働きながら、利益を上げる経営」を支援している。
かつて自分が苦しんだからこそ、伝えられることがある。
誰もが幸せに働ける社会を作りたい──
その想いが、今の彼を動かしている。
5.「もう、飛び出すしかなかった」—
後がない状態から始まった、人生の大逆転劇
あなたは、人生で何度「ゼロ」になったことがありますか?
多くの人は、一度もないかもしれません。
しかし、柳沼さんは違いました。
25歳までに、2度も会社を変わる経験をにし、その度に、人生のすべてを失いかけた男。
電気工事の現場で朝から晩まで働き詰め。
深夜まで荷物を仕分けし、朝8時にまた出社。
「ウェルビーイング?
そんなもの、考える余裕すらなかった」
彼が経験したのは、ただ働くだけの人生。
やりがいも、未来への希望も見えない日々。
6.就職先も決めずに退職 —
「追い込まれた」からこその決断
電気工事会社で4年間、必死に働いた柳沼さん。
しかし、心の中のモヤモヤは募るばかり。
「今のままでは耐えられない」
相談できる人もほとんどいない中、 彼が選んだのは、就職先も決めずに会社を辞めるという危険な賭けでした。
普通なら、絶対にやってはいけない選択。
でも、それしか道がなかった。
7.祖母の家庭料理屋で運命の出会い
人生のどん底にいた柳沼さんに、一筋の光が差し込みます。
祖母が営む家庭料理屋の常連客。
その人が、偶然にも車の運転手を探していたのです。
「お前、仕事決めないで 辞めるなよ」
怒られながらも、その人の紹介で会った社長は、 柳沼さんの人生を変える存在になります。
お抱え運転手として1年間、毎日送り迎え。
そして、社長が独立を決意したとき—
「お前も、一緒に来ないか?」
仕事もない。行く場所もない。 だからこそ、彼は迷わず答えました。
「行きます」
8.4人から始まった会社が、
3年で売上10億円へ
倉庫を借りるところから、トラックの手配、営業活動— すべてがゼロからのスタート。
25歳の若さで、柳沼さんは**「0→1」の起業の現場**を体験します。
トラックの運転手でありながら、営業もこなし、マネジメントも担当。
部下は20人。アルバイトも含めれば、さらに多くの人を束ねる立場に。
会社は急成長を遂げ、 たった3年で従業員25人、年商10億円という驚異的な成長を実現。
「やっと、報われる」
そう思った矢先—
9.突然の撤退決定。すべてが水の泡に
3年半、必死に働き続けた柳沼さん。
しかし、ある日突然のトラブルが発生します。
経営方針の変更。
事業部ごと、撤退。
物流事業に関わる全員が、リストラ対象に。
「どうしようもなかった」
深夜まで働き、朝8時に出社する日々。
それを3年以上続けて、最後に残ったのは—
「人に人生を振り回される」という、無力感だけでした。
10.2度の挫折が教えてくれた、
本当の「働く意味」
電気工事会社での4年間。
物流会社での3年半。
合計7年半。
柳沼さんは「やりがい」を感じられない日々を過ごしてきました。
でも、だからこそ彼は気づいたのです。
「自分の人生は、自分でコントロールしなければならない」
そして今、彼は新たな挑戦を始めています。
どん底から這い上がった男の、リアルな人生ストーリー。
あなたの人生にも、必ず響くものがあるはずです。
最終回の第3話もお楽しみに!
初対面の印象は「真面目で優しい人」。
でも話を聞けば聞くほど、柳沼さんの中には誰もやっていない道を選ぶ勇気がある。彼自身は「アウトロー的なところがある」と笑う。
小学3年生で野球の仲間集めに成功し、チームを0から立ち上げた。
その経験が、今の柳沼さんを作っている。
3つの会社を経営し、ウェルビーイングという大きなテーマで事業を展開する。
常に「誰もやっていないこと」に0から挑戦し続ける彼の原点は、あの小学校時代の成功体験にあった。
「なんかこう、成功体験として今も残ってるような感じがします」
柳沼さんはそう語る。
話を聞いていると、その語り口の上手さにも驚かされる。
まるで映画のワンシーンを見ているかのように、情景が目に浮かぶ。
1.「なんとなく」から始まった野球人生
柳沼圭佑さんは1985年生まれ。
今は 3つの会社の代表として「ウェルビーイング」をテーマに事業を展開している。
しかし、彼の人生は決して順風満帆ではなかった。
山あり谷ありの波乱万丈な道のりを歩んできた。
その原点は、小学校時代にある。
父親に「野球を習いなさい」と言われて始めた野球。
正直なところ、最初は「なんとなく」だったと柳沼さんは振り返る。
学校から帰ってきては、グローブとバットとボールを持って友達と練習する日々。少年野球のチームに入り、同級生がまだ野球を習っていない中、2つ年上のお兄さんたちと一緒にプレーしていた。
でも、小学3年生の時、何かが変わった。
2.チームを「0から作る」という経験
小学3年生の時、柳沼さんの中にある想いが芽生えた。
「同級生として大会に出たい」。
でも、それを実現するには自分が友達を誘ってこないといけない。
そこで彼は動き出した。
クラスメートや他のクラスの友達で「いいな」と思う子を見つけると、
「野球習わない?」とスカウトしに行った。
そう野球チームを0から作り始めたのだ。
3.小学3年生の前歯にボールが直撃事件
「本気で投げてこい」
クラスのガキ大将がそう言った。
でも、小学3年生の柳沼圭佑さんは躊躇した。
怪我をさせたくなかったから。
けれど相手は引かない。
「そんなんじゃ物足りない。本気で投げてこい」
仕方なく、本気でビュンと投げた。
次の瞬間、ボールは彼の前歯を直撃した。
「最悪だ!」
柳沼さんは頭が真っ白になった。
同級生を集めて野球チームを作りたかった。
そのキーマンとなる彼を、自分の手で怪我させてしまった。
その日、前歯を折られた少年は帰っていった。
柳沼さんは「もう終わった」と思った。
しかし、翌日──
「やっぱり野球やるわ」
前歯を折られたはずの少年が、そう言って戻ってきた。
しかも、彼の周りには5人から6人の仲間がいた。
ガキ大将が放った一言が、すべてを変えた。
「お前ら、野球やれ」。
その言葉で、一気にチームメンバーが増えた。
そして前歯を折られた彼は、後にエースピッチャーとなる。
4.『自分で作る喜び』が人生を変えた──
起業家の原点
1人、2人と増やしていき、最終的に11人ほどの同級生を集めることに成功した。
そこでは、チーム名を決めるところから、ユニフォームのデザインまで、すべてを自分たちで決めることができた。同級生がいない中、2つ年上の先輩たちと、わずか10人から11人というギリギリの人数で始まったチーム。
振り返ってみれば、これが柳沼さんの
「チームってこうやって出来上がるんだ」という原体験になった。
そして今、3つの会社を立ち上げた彼は言う。
「0から1を作るのが好きなんです」
誰もやっていないことをやりたい。
自分だからこそできることに、やりがいを感じる。
その根底には、小学3年生で味わった「自分で作っていく喜び」があった。
これが、現在40歳で3つの会社を経営する男の、原点の物語だ。
5.負けたら坊主。
だから、彼は野球をやめた——
中学2年生の柳沼さんは、顧問の先生にこう告げられました。
「試合に負けたから、お前ら全員 坊主だ」
チームメイトは従った。
でも、彼は違った。
納得できない。
一生懸命やったのに、なぜ負けたら坊主なんだ?
「じゃあ、野球をやめます」
その日、彼は9年間続けた野球から離れることになります。
6.父子家庭、東京の団地、買えないもの
小学1年生で両親が離婚。
父親と2つ年上の姉、3人での生活が始まりました。
経済的に豊かではない日々。
買いたいものも買えない。
野球部の月謝も払えない。
母親もいない寂しさを紛らわすように、ただひたすら野球に没頭しました。
地域のオールスターチームのキャプテン。
小学校では仲間を集め、チームを作る才能を発揮。
野球は彼の居場所でした。
7.「お前、才能あるんだから、
もう1回、野球をやれ」
先輩だった中学3年生を送り出す卒業式の日。
やめたはずの野球部の顧問が、彼を呼び止めました。
いつものように耳を引っ張りながら。
「お前才能あるんだから、もう1回、野球をやれ。
俺もいなくなるから」
先生も、学校を去るタイミングでした。
葛藤の末、彼は決断します。
最後の夏、ピッチャーとして戻ることを。
8.不真面目だった自分が、ピッチャーで試合に出ていいのか?
真面目に続けてきた仲間たちの中で、ピッチャーマウンドに立つ。
3回戦で敗退。
「こんな自分がピッチャーをやっていいのか」
今でも心に残る、複雑な思い。
でも、チームは彼を受け入れました。
戦力として、仲間として。
9.そして高校へ——野球を続けるか、やめるか
有名な高校からの誘いもありました。
でも、経済的な余裕はない。
私立という選択肢は選べない。
中学3年、千葉県の拓大紅陵高校のグラウンドで、
選抜メンバーとして他地区の強豪と対戦した時——
全然通用しなかった。
体格も実力も、圧倒的な差。
胃の中がひっくり返るような衝撃。
「これはダメだな」
自分に言い訳しながら、彼は野球から離れる決断をしました。
10.40歳で、まだ「0→1」は終わらない
今回のポッドキャスト番組「人生配信オンリーワン」では、柳沼圭佑さんの人生を配信しています。
小学校時代の「0→1」成功体験から、3つの会社を経営するまでの「山あり谷あり」の人生。
ウェルビーイングを広める理由。
仲間を集め、チームを作る極意。
そして40歳で「誰もやっていないこと」に挑戦し続ける理由。
前歯を折ってしまった相手が、エースピッチャーになった。
小学3年生で11人のチームを作り上げた。
その経験が、今も彼を動かし続けている。
起業を考えている人、
チーム作りに悩んでいる人、
0から1の仕事に興味がある人、
人生の転機を迎えている人、
誰かの人生に勇気をもらいたい人。
このエピソードは、あなたの心に響くはずだ。
選択と葛藤の連続が、人を作る
高校時代、野球をやめた彼はアルバイトと友達との時間に没頭します。
そこから彼の人生は、どう展開していくのか——?
第2話もお楽しみに!
PS
あなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。
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1.まず自分自身が”プロとして生き残ること”
そう本音で語るのは、ドバイでグローバルキャリアを支援する藤井さん。
彼女の声には、理想と現実の狭間で戦う“プロの覚悟”がにじむ。
かつて、人材育成からキャリア開発までを一貫して支援してきた藤井さん。
彼女の中にはずっと変わらない軸がある。
それは――**「多様性に満ちたキャリアの選択肢を広げ、人の可能性を世界に繋げたい」**という想い。
しかし、いま彼女が立つ場所は、世界で特に競争が激しい街・ドバイ。
LinkedInに求人を出せば、500通以上の応募が届く。
採用の現場では、AIが候補者を自動でマッチングする時代がすぐそこまで来ている。
「このままでは、生き残れない。」
彼女はそう痛感した。
だからこそ、今はしゃがむ。
教育ビジネスも、一時的に脇に置いた。
再び“プロの人材紹介の現場”で勝負するために。
そして彼女が見据える次のステージは――
「クロスボーダーのエグゼクティブサーチ」。
世界をまたぎ、国境を越え、リーダーたちの未来を繋ぐ挑戦だ。
2.ドバイに飛び込んだ、日本人女性の挑戦
― 誰もいない場所で、オンリーワンになるために ―
「日本人の人材コンサルタント?この国にはまだいないよ。」
その一言が、藤井薫さんの心に火をつけました。北京で教育に携わり、数多くの若者のキャリアを支えてきた彼女。
“挑戦し続ける人であれ”と生徒たちに語ってきた言葉を、今度は自分自身に向けて証明する時が来たのです。
舞台はドバイ。
世界中から才能が集まり、AIが採用を変えようとしている超競争市場。
それでも「本当に必要な一人」は、簡単には見つからない。
AIでも探せない人材を、国を超えてつなぐのが彼女の仕事。
――そう、“人”の心と“可能性”を見抜く力が、藤井さんの武器です。
今、彼女は新しい山を登っています。
新しい世界を舞台に、挑戦し続けるプロフェッショナルとして再び立ち上がったのです。
「夢は簡単に叶わない。でも、挑戦し続けること――その繰り返しが人生だから。」
いつも教え子にそう語った言葉を胸に、藤井カオルさんは今日も異国の地で、自らの言葉を生きています。
「やはり、どの国でも、プロとして良い仕事がしたい」
その言葉に、彼女の“今”が凝縮されている。
崇高な夢を持ちながらも、現実を直視して進化し続ける。まさに“しゃがんで、ジャンプする時期”。
3.『止まって、退化するのが怖い』
― ドバイで挑み続ける、日本人女性・藤井薫の生き方 ―
「安定してる場所にいると、急に不安になるんです。
だから、また挑戦してしまう。」
藤井薫さんは笑いながらそう話します。
けれど、その言葉の裏には、何度も“破壊と創造”を繰り返してきた人生がありました。
そして今、舞台はドバイへ――。
そこは、世界中から才能が集まる競争の街。文化も価値観も、何もかもが違う場所で、彼女はまたゼロから積み上げを始めています。
「止まるのが怖い。でもそれ以上に、“挑戦しない自分”になるのが怖いんです。」
リスクを取らないことが、最大のリスク。
その選択を、何度も繰り返してきた藤井さん。
彼女の生き方には、「挑戦する人だけが見える景色」があります。
ただのキャリア論ではありません。
それは、“自分という人間を生きる覚悟”の物語。
「挑戦が好きなんです」
と、少し照れながらも本気で言える人。そんな彼女の姿に、きっとあなたも心を動かされるはずです。
『人生配信オンリーワン』
今回のゲストは、ドバイから挑戦を続けるグローバルキャリアコーチ・藤井さん。彼女の「生き残るための挑戦」と「未来を繋ぐ想い」を、どうぞ耳で感じてください。
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#BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment
1.離婚、オーストラリア、そして東京。
― 一度しゃがんで、大きく跳ぶ―
人生が思い通りにいかないとき、
それは“しゃがんでいる時間”なのかもしれません。
ファッションデザイナーとしてキャリアを歩み始めた藤井さん。
しかし、人生の流れは静かに、けれど確実に方向を変えていきました。
転職、タレント事務所での新しい仕事。そしてオーストラリアでのワーホリは単なる「語学留学」では終わらなかったのです。
2.結婚したまま、オーストラリアへ
行く前から、離婚の予感はあった。それでも夫は言いました。
「行っておいで。結婚したままでいいから。」
ブリズベンとシドニー、2つの家庭でのホームステイ。
どちらも離婚を経験したシングルファミリー。彼女たちは、悲しみよりも「たくましさ」で生きていました。
――その姿を見て、藤井さんは気づきます。
「あ、離婚してもいいんだ。人生はそこで終わらない。」
そして日本に戻り、離婚。
けれど、そこからが藤井さんの“人生の再スタート”でした。
3.大阪を出たからこそ、東京に行けた
離婚したから、自由になれた。自由になったから、挑戦できた。挑戦できたから、東京へ行けた。
――そして、世界最大級の人材会社「ランスタッド」でキャリアを積み上げていく。
ファッションデザイナーから人材ビジネスへ。
まったく異なる世界で、ゼロから山を登るように挑戦を重ねた日々。その頂上で、彼女は確かに“見たかった景色”を見たのです。
4.登りたい山を、見つけていますか?
藤井さんの人生は、まるで登山のよう。一度しゃがんで、大きく跳ぶ。
そして登った先で、次の山が見える。
「どの山に登りたいのか?」「その山の頂上から、どんな景色を見たいのか?」
キャリアに悩む人へ、藤井さんが語る言葉には、
“等身大のリアル”と“希望の手ざわり”が詰まっています。
5.みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る
― 人生のリセットを繰り返しながら、見える景色を変えていく ―
人生は“登山”のようなものかもしれません。
登る山が変われば、見える景色も変わる。そしてその景色が変わるたびに、
「生きてるって、こういうことなんだ」と感じられる瞬間がある。
藤井さんの人生は、まさにその連続でした。
5.1 ファッションデザイナーから、キャリアの大転換
最初の山は「ファッションデザイナーの世界」。
華やかな業界の中で、キャリアを積み上げていく日々。
けれど、ふと気づいた。
「私が登りたい山は、本当にここなのかな?」
そうして彼女は、勇気を持って一度しゃがみ、
全く新しい山――人材ビジネスの世界へ飛び込みました。
5.2 離婚、オーストラリア、そして中国・深圳へ
留学、離婚、転職、海外。
誰もが迷い、立ち止まるような岐路を、藤井さんは何度も越えてきました。
でも、彼女にはひとつの哲学があったのです。
「次の山を登るときは、いま持ってる成功をいったん捨てる。」
それは、自分を軽くして、もっと高くジャンプするための「リセット」でした。そうして彼女は、東京・深圳・北京・ドバイへと舞台を変えながら、
自分だけの“登山ルート”を切り拓いてきたのです。
5.3 「みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る」
ある日、お母さんが言いました。
「あなたは特別な才能があるわけじゃない。だからみんなが登る富士山の頂上は難しいかもしれない。でも、自分の“藤井山”なら、登れるはずよ。」
その言葉が、藤井さんの人生の軸になりました。他人と比べるのではなく、自分の登りたい山を見つける。それこそが“自分らしく生きる”ということ。
5.4 今、あなたの登っている山は「誰の山」ですか?
エベレストを目指す必要なんてない。評価されるための山でもなくていい。
あなたが「この景色を見たい」と思える山を見つけたとき、人生は驚くほどクリアに、そして力強く動き出します。
6.何を捨てて、何を残すか?
― キャリアのリセットで人生をワープさせた、藤井さんの挑戦 ―
「捨てなきゃ、掴めない。」
ファッション業界から人材業界へ。
日本からオーストラリア、中国、そしてドバイへ。
そのたびに、彼女は“何かを手放す決断”をしてきました。
彼女が大切にしているのは、ただの“転職”ではありません。
それは、“生き方を更新する”という選択。
「人間のキャパには限界がある。だから、次に欲しいものを両手で掴むためには、まずは今の荷物を降ろす必要があるんです。」
クライアントとの関係も、積み上げた実績も、すべて一度リセットして、新しいステージへ挑む。
その潔さが、彼女のキャリアをワープさせてきました。
7.捨てた先に見えた“想定外の景色”
深圳に渡ったとき、藤井さんは学生ビザ。中国語も話せず、仕事のツテもゼロ。
それでも、「英語でできることをやろう」と決めて一歩を踏み出した。
すると、Forbes JAPAN公式コラムニストへの抜擢、現地の経営者たちとの出会い、そして日本と中国をつなぐヘッドハンティング事業の成功へ。
「学生ビザで始めた1年後には、クライアントと一緒にロサンゼルスにいたんです。」
まさに“想定外の成長”。
環境を変えることで、人生は一気にワープできる。藤井さんはそれを体現していました。
8.能力は同じ。でも、場所を変えると価値が上がる
印象的だったのは、この一言。
「私の能力は日本にいたときと何も変わってない。でも、場所を変えたら“希少価値”が上がった。」
つまり、“自分の才能を活かせる市場を選ぶ”という発想です。
彼女はそれを戦略的に実践し、“自分の価値を最大化する生き方”を選びました。
9.あなたに問いかけたい
今のあなたのキャリアは、本当に自分の価値が輝く場所にありますか?
もし少しでも「違うかも」と感じたら、
藤井さんの言葉を思い出してください。
「次に掴みたいものが大きいほど、手放す覚悟も大きくなる。」
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#BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment
「結婚も出産も、無理にしなくていい。あなたは、あなたの人生を生きなさい。」
「女の子だから」「周りに合わせなさい」そう言われるのが当たり前だった時代に、たったひとり、娘に“逆のこと”を言い続けた母がいました。
母にそう言われて育った少女は、やがて世界を舞台に“自分の道”を切り拓いていく。
彼女の名は――藤井薫さん。
20年以上にわたり、企業と人をつなぐ仕事に没頭。日本で会社を立ち上げた直後には、中国・深圳へ単身移住。さらに北京で教育事業を展開し、今はドバイに拠点を構え、「日本×中国×UAE」を結ぶクロスボーダーキャリア支援を行っています。
けれど、彼女の人生は決して“順風満帆”ではなかった。
岡山の田舎で生まれ、「女性はこうあるべき」と言われる時代に、“自分の人生を自分でデザインする”という生き方を選んだ彼女。小さいころからの夢であったファッションデザイナーを5年間経験した後に、全く違う業種への転職。オーストラリアへのワーホリ、離婚、東京進出のための転職、起業など、数多くの困難に立ち向かい、藤井さん自身が日々もがき苦しみながら、数多くのキャリア支援をされています。
まさに「グローバルキャリアの先駆者」。
そんな藤井さんが赤裸々に語られた人生物語は、新しいキャリアに向けて、捨てる勇気など数多くのことを学ぶことができます。
1.“みんなと同じ”じゃなくていい —母がくれた人生の軸
藤井さんは岡山の田舎で育ちました。
当時の地域性や時代背景を考えると、「自分の意見を持つ」とか「個性を大事にする」という考え方は、ほとんどありませんでした。
まわりの同級生も、きっとそうだったと思います。
「みんなと同じように」「ちゃんとした大人になりなさい」——そんな空気が当たり前の時代でした。
でも、うちの母だけは違いました。
「自分がどうしたいのか、ちゃんと考えてごらん」「夢があるなら、自分の言葉でプレゼンしてみなさい」
まるでコーチみたいに、子どもの私に“自発性”を促してくれたんです。
だからこそ私は、幼いころから「こうなりたい」「だからこう頑張る」という感覚が自然に身についていた。
それは今の私の“人生の軸”にもなっています。
たぶん、普通の小学生だったら、そんなことを言われるとプレッシャーを感じたり、戸惑ったりするかもしれません。
でも私にとっては、それが当たり前の環境でした。
だから他の家庭と違うことを言われている、なんて感覚もなかったんです。
今振り返ると、母は私に“枠”をはめなかった人でした。
「周りがこうだから、あなたもそうしなさい」
——そんな言葉を一度も言われた記憶がありません。
たとえば田舎では、「この年齢になったら結婚」「このくらいで子どもを持つ」という暗黙のルールがありました。
でも母は、そんな価値観に縛られることを望まなかった。
むしろ、「あなたはあなたでいい」と言ってくれた。
そのおかげで私は、“枠にはめられない生き方”を、心から心地よく感じられるようになりました。
2.夢を手放した日、私は“本当の自分”に出会った—藤井さんの転職物語
子どもの頃からの夢は、ファッションデザイナーになること。
その夢を追いかけ、必死で学び、ようやく憧れの仕事に就いた藤井さん。
最初の数年は苦労の連続。それでも5年目にはようやく“形”になってきた——周囲からも認められ、生活も安定し、夢は叶ったはずでした。
でも、心のどこかでずっと聞こえていた小さな声。
「この道では、一流になれない気がする」
その気づきは痛みとともに訪れます。
そして彼女は、**「夢を叶えたのに、満たされない自分」**と向き合うことになります。
ある夏の日、デパートの水着売り場で自分のデザインを販売していたときのこと。
お客様と直接話し、笑い合い、感謝される時間が——
どんなデザインよりも楽しかった。
先輩に言われた言葉が心に刺さります。
「藤井ちゃん、販売とか営業のほうが向いてるんじゃない?」
その瞬間、彼女は悟りました。
自分の中に流れる“人と関わる仕事”へのDNA。そう、両親もまた営業職。血の中に流れていたものを、ようやく自分で見つけたのです。
3.5年間のデザイナーという経験と夢を捨てる勇気
悩みに悩み、藤井さんは、ファッションデザイナーという安定を手放し、人材ビジネスの世界へ転職するという大きな決断をします。
人と人をつなぎ、誰かの人生の転機を支える仕事でした。
かつて布をデザインしていた藤井さんが、今度は「人のキャリアをデザインする」ようになったのです。
「私にとって、マッチングの仕事は“究極のクリエイティブ”。
だから今も“デザイン”という言葉を会社名に入れています。」
自身の会社「ダイバースキャリアデザイン」には、そんな想いが込められています。
多様性を受け入れ、自分らしい生き方をデザインする。それは、藤井さん自身の生き方そのもの。「人と人をつなぐ仕事」は、まさに彼女の天職。
4.「一生かけられる」と思えた瞬間
ファッションデザイナーから人財ビジネスへ転職を決めたとき、正直、ものすごく悩みました。
「これだったら、一生かけてもいい」と思えるものに出会えたからこそ、決断は重かったんです。
子どものころから夢見てきたデザイナーの道。
そのために努力を積み重ね、時間もお金も注いできた。
でも、その夢を手放さなければ次の一歩に進めない——。
そんな覚悟が必要でした。
一度やめたら、もう戻れない。
その怖さを感じながらも、「今の自分を生きる」という想いの方が強かった。
だからこそ、あの時の決断は、私の人生の転機になりました。
正直に言えば、「これまでの努力を無駄にしたくない」という気持ちもありました。
親への感謝や、学費への申し訳なさもあった。「せっかくここまで来たのに、もったいない」周囲からもそう言われました。
でも、私は思ったんです。
——“もったいない”って、誰の基準なんだろう。
結局のところ、自分の人生は自分で選ぶしかない。
その時の私は、すべてを手放してでも「無の状態からもう一度、自分が本当に欲しいものを掴みに行こう」と決めました。
雑音に惑わされず、自分の心の声だけを信じた。
あの瞬間を思い出すたびに、「あの決断があって本当に良かった」と今も心から思います。
過去を捨てる勇気は、未来をつかむ第一歩なんですよね。
5.人生のリセットは、次のジャンプの始まり
「一度、人生をまっさらにして世界を見たい」
誰もが不安で足を止めるその瞬間、彼女は“しゃがむように”一度下がり、そしてさらに高くジャンプしました。
「今思えば、ファッションデザイナーから人材ビジネスというリセットがあったからこそ、その後も挑戦し続けられたんです。」
夢を叶えた後に訪れる「空白の時間」。
誰もが恐れる“しゃがむ瞬間”を、藤井さんは、逃げずに受け止めました。
そして、ジャンプするためにしゃがむ勇気を持ったからこそ、
今、人の人生を支える立場に立っているのです。
一度しゃがんだからこそ、今こんなに高く跳べている。
夢を叶えたあと、“もう一度”自分を探したくなったあなたへ。
あなたの中にも、もう一度ジャンプしたい気持ちはありませんか?
藤井さんの言葉には、その勇気をくれる力があります。人生をデザインし直すヒントが、ここにあります。
PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。
「過去は変わる。全然変わるの。」
そう断言する一人の男性がいます。多くの人が「過去は変えられない」と諦める中、彼は空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去をポジティブに書き換えてしまうのです。
甲子園を夢見ていた野球少年が、なぜリーゼントパーマをかけてソフトボール部に入り、国体選手になったのか。そして就職活動もせずに入った会社で、なぜ取締役まで上り詰めることができたのか。その答えは、彼が持つ独特の人生哲学にありました。
1.野球少年がリーゼントでソフトボール国体選手に?!
甲子園を夢見ていた一人の野球少年がいました。しかし高校に入学する頃、時代は不良ブーム真っ盛り。横浜銀蝿やシャネルズに憧れた彼は、野球部に入って坊主頭になることよりも、リーゼントパーマをかけることを選んだのです。
そんな彼が見つけたのが、なんと「男子ソフトボール部」でした。
野球に似ているけれど、髪の毛を伸ばしていてもいい。
真面目な高校生だった彼は、憧れのリーゼントパーマをかけながらも成績優秀で、ソフトボールでも才能を発揮します。そしてついに、千葉県選抜として国体出場という快挙を成し遂げました。行進で手を振る自分の姿が、今でも鮮明に記憶に残っているそうです。
2.お風呂なし→トイレ付き→完備→彼女欲しい!「大学生の立身出世の夢」
大学時代は、まさに昭和の青春そのものでした。
最初はお風呂なし、トイレ共同の下宿からスタート。でも彼には明確な夢がありました。「立身出世」という、今では死語になってしまった言葉を純粋に信じていた時代です。
2年生でトイレ付きの部屋。
3年生でついにお風呂もトイレも完備した部屋を手に入れます。
そして今度は「彼女が欲しい」と、段階的にステップアップしていく大学生活。現代のように最初から満たされていない時代だからこそ、一つ一つの成長に純粋な喜びを感じることができたのです。
彼はこれを「立身出世の夢」と表現し、その輝かしい思い出が今でも走馬灯のように蘇ってくると語ります。
3.悪魔のささやきがくれた最適解
そして4年生。就職活動の季節がやってきます。マスコミやテレビ局への憧れはあったものの、何十社も回って挫折を味わうのは嫌だと思っていた時、またしても「悪魔のささやき」が現れました。高校時代の大学推薦に続いて、今度はゼミの教授からの紹介です。
「佐藤君、金融系会社はどう?」
金融業界なんて全く興味がなかったのに、「まあ、いいかな」という軽い気持ちで就職活動もせずに入社。それが現在の取締役という地位につながったのです。
当時は「推薦なんか受けなければ、もっといい大学に入れたのに」「もっとちゃんと就職活動していれば、もっとすごい企業に入れたのに」と思う時期もありました。
しかし今振り返ると、「人生万事塞翁が馬」。
すべてが最適解だったと確信しています。
大手企業に勤める友人たちを見ていると、50歳を過ぎれば出向の現実が待っています。どんなに楽しくても、残りの10年間を屈辱的な思いで過ごす可能性が高い。そう考えると、教授の「悪魔のささやき」に素直に従ったあの判断は、まさに大正解だったのです。
会社からは様々な投資をしてもらい、海外研修なども経験し、多くのことを学ぶ機会に恵まれました。そして何より、自分なりの「逆転の美学」を身につけることができたのです。
4.過去は変えられる――全部ポジティブに書き換える人生哲学
この物語の真の魅力は、彼の独特な人生哲学にあります。
「過去は変わる。全然変わるの」
多くの人が過去を後悔する中、彼は「過去なんてそもそもない。あるのは捉え方や記憶だけ」と断言します。そして捉え方を変えれば、「過去なんてゴロゴロゴロゴロ全部ポジティブに変わっていく」のです。
あの時振られた彼女への憎しみも、今では「振ってくれたから今の家族ができた。すごいありがたかった」に変わります。
空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去がオッケーサインに変わっていく。この発想の転換こそが、彼の人生を輝かせ続ける原動力なのです。
5.誰も褒めてくれない大人へ――“大人の通信簿”がくれる成長の力
さらに興味深いのは、彼が持つ「大人の通信簿」という概念です。
郷ひろみをアイドルとして掲げ、「他人と比べても無意味。つまらない優越感しか生まれない」という信念を持ちながらも、実は心の奥底で「大人の通信簿」を求め続けています。
「誰も褒めてくれない大人になったけれど、僕の中でやっぱり通信簿っていう概念がずっとあって、いい通信簿を取りたい」
この純粋な気持ちが、彼を常に成長させ、新しい挑戦へと向かわせるのです。人から「ダンディだね」と言われることを「おじさんみたいで嫌」と言いながらも、それが自分への評価だと受け取り、さらに磨きをかけていく。
「常に今がピークなんだよ。それを更新していってるの。どんどんどんどん」
だからこそ、暗い過去も全部明るく思える。今の自分に5をつけられるから、今を肯定できるのです。
昔の写真を見せて「かっこいいだろう」と自慢する先輩を見て感じた違和感から、「今を見てもらって、今かっこいいって言ってもらう方がいい」という哲学が生まれました。
この男性の人生は、現代を生きる多くの人にとって大きな示唆を与えてくれます。挫折を恐れることの意外な効用、過去の捉え方を変える力、そして「大人の通信簿」を求める純粋な気持ちの大切さ。
6.「毎日がハッピーバースデー」を実践する人生哲学
雨の日曜日の夜。
5歳の少年は窓際に膝をついて外を眺めていました。曇った窓ガラスに一滴の雨水が右上から左下へとすーっと流れ、窓を二分割したその瞬間、彼は悟ったのです。「人は死ぬんだな」と。
それから小学校まで続いた死の恐怖。
特に日曜の夜、テレビが終わる時間になると死ぬことばかり考えてしまう少年は、やがて一つの答えにたどり着きました。
「100歳まで心も体も元気良くかっこよく家族と幸せにいる」という人生の目標です。
これは、野球少年からリーゼント国体選手、そして現在は取締役まで上り詰めた一人の男性の、30分間にわたる人生の全てを語った物語です。
7.影を見るだけで生まれ変わる男の秘密
毎朝、ジムでトレーニングを終えてサウナに入り、髭を剃ってシャンプーを済ませる。そして洋服を着替えて飯田橋駅へと向かう途中、アスファルトに映った自分のシュッとした影を見た瞬間、彼は思うのです。「ああ、また生まれ変わった」と。
これが彼の言う「毎日がハッピーバースデー」の正体でした。
筋トレで充実感を得て、サウナで汗を流して代謝を良くし、身だしなみを整えて颯爽と歩く。その影を見るだけで、毎日新しい自分に生まれ変わったという実感を得られるのです。
8.「株式会社自分」の経営哲学
「大半の人は赤字決算で年を重ねている。どんどん負債が増えて、それは経営努力してないから」
彼が語るのは、人生を「株式会社自分」として経営するという革新的な考え方です。
キャリアという陳腐な言葉ではなく、自分という会社をどう経営していくか。赤字にならなければいい、黒字なら最高だと割り切る潔さがありました。
そして彼は「大人の通信簿」を常に意識しています。
誰も褒めてくれない大人になったけれど、心の奥底では「いい通信簿を取りたい」という純粋な気持ちを持ち続けている。だからこそ、常に自分を磨き、新しい挑戦を続けているのです。
10.マンダラチャートで描く100歳への道のり
大谷翔平が作ったマンダラチャートを使って、真ん中に「100歳まで」を目標に設定。周りに8個、その周りにさらに8個ずつ、全部で64個の項目を埋めて、時々見直しながら評価しています。
「言ってるだけじゃ無理だよね。100歳で元気にかっこよくなって。そのためにやっぱり構成するものを一個一個やっていかないと」
この計画性と実行力が、彼を常に成長させ続けているのです。
11.家族への感謝と自己受容
しかし、彼は決して完璧な人間ではありません。家のことは妻に任せきりで、大学生のような一人下宿人状態。DIYなどの家庭的なことは一切できない。それでも彼は自分の限界を受け入れ、家族への感謝を忘れません。
「そういう家族との接し方を犠牲にしてる部分もある。いいことばっかりじゃ実際はないよね。でもそれを分かるようにしてるから、また感謝できるし」
この自己受容と感謝の気持ちが、彼をより魅力的にしているのかもしれません。
あなたの人生も変わる30分間
昭和から令和まで生き抜いた一人の男性の証言は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。
「満たされた」現代では味わえない、純粋な向上心と成長への渇望。
そして何より、「運命」や「縁」を信じることの大切さを教えてくれるのです。
そして何より、5歳で感じた死の恐怖を100歳への目標に変え、毎朝の影を見るだけで生まれ変わりを実感する。過去を全てポジティブに変換し、「大人の通信簿」を求めて常に成長し続ける。
この30分間の物語は、あなたの人生観を必ず変えるでしょう。人生に迷いを感じている方、過去を後悔している方、自分の可能性を信じたい方。そして何より、毎日を生き生きと過ごしたい方にとって、この男性の人生哲学は宝物のような示唆に満ちています。
「今がピーク。それを更新していってるの。どんどんどんどん」
そう語る彼の声には、確固たる自信と温かい人間味が溢れています。
きっとあなたも「毎日がハッピーバースデー」の意味を理解し、明日からの生き方が変わるはずです。
太っていて、暗くて、親は離婚、母親は水商売...
普通なら「どうせ俺なんて」と諦めてしまいそうな環境。
夜中に勉強していると、酔っ払いが外階段をドンドンと登ってきて、部屋のドアを叩く音が響く。そんな日常が当たり前だった少年時代。
でも、サトウくんは違った。
テレビに出る子役として華やかな世界を経験しながらも、家に帰れば複雑な家庭環境。コンプレックスの塊のような毎日を送っていたはずなのに、彼の心の奥底には不思議な確信があった。「俺は大丈夫だ」「きっとできる」という、根拠のない自信。
普通なら心が折れるような状況で、なぜ彼は自分を愛し続けることができたのか?
1.吃音と孤独に向き合った少年の記録
小学校低学年のサトウくん。太っちょで、しかも吃音症でした。国語の時間になると、教科書の音読が回ってこないかと油汗を流しながらビクビクしていました。「男」も「赤」もうまく言えない。
そんな彼が編み出したのは、「うお」と小さく言ってから「男」と発音する独自の裏技でした。必死に、必死に自分のハンディキャップと向き合っていたのです。
しかし、試練はそれだけではありませんでした。
小学6年生の時、両親の不仲が原因で祖父母の家に預けられることになります。夜になると、狭い部屋におばさんとおばあさんの母親への悪口が響きます。幼い彼は枕を耳に当てながら、その辛い時間をただただ耐えるしかありませんでした。体は痩せて格好良くなりつつあるのに、心には新たなコンプレックスが芽生えていたのです。
2.コンプレックスを力に変えたサトウくんの逆転人生
ところが、ここで人生の不思議が起こります。
その辛い1年間が、なぜか彼にとって最高に幸せな時期となったのです。
野球が上手になり、クラスの人気者になり、まるで別人のような輝きを見せ始めました。まさに「人生はプラスマイナス」を体現する瞬間でした。
しかし、再び試練が襲います。中学に戻ると両親は結局離婚。当時はまだ珍しかった「片親の子」というレッテルが、新たなコンプレックスとなって彼を苦しめました。
そんな彼を救ったのは、ピンクレディのミーちゃんでした。
テレビで「頬の肉をなくすには叩くといい」と言っているのを見て、彼の「頬を叩く人生」が始まったのです。継続的な努力、強い意志、そして明確な目標。これらが彼を今の姿に変えていきました。
今では信じられないかもしれませんが、あの饒舌で自信に溢れたサトウくんの頬がこけているのは、実はこの努力の結果なのです。彼は語ります。
「努力が必要だよね、継続的な。なりたいっていう強い思いがね」と。
片親だからこそ勉強を頑張り、公立高校から大学へ。
運動も継続し、常に何かの目標を持ち続けました。
コンプレックスを原動力に変え、逆境を乗り越えてきた彼の人生は、まさに現代人への希望のメッセージなのです。
3.「ある心理学理論」との出会い
数十年後、キャリアコンサルタントとして活動していたサトウくんは、カナダの心理学者バンデューラが提唱した理論と出会う。その瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が走った。
「あ、これだったんだ」
自己効力感。
自分には「できそうだな」という感覚を持つこと。多くの日本人が苦手とするこの感覚を、彼は無意識のうちに身につけていたのだ。
子役時代の成功体験、テレビで見るかっこいい大人たちへの憧れ、周りからの「サトウくんは大丈夫だよ」という言葉。
そして何より、自分で自分を褒め続けてきた習慣。
これらすべてが、バンデューラの理論が示す「自己効力感を高める4つの要素」と完全に一致していた。
4.「自分をけなす人生」か「自分を褒める人生」か
「自分と一緒にいる時間が一番長いんだから、自分をけなす人生と自分を褒める人生、どっちを選ぶ?」
サトウくんのこの言葉に、多くの人がハッとする。日本人は謙遜を美徳とし、減点主義で育てられる。でも、それでは自己効力感は育たない。海外で活動することが多いリスナーは、日本人の元気のなさを痛感している。
「だからこそ、僕たちが変えていけばいい。周りの人に自己効力感を教えてあげればいい」
サトウくんの人生は、まさに希望の光だった。どんなにコンプレックスがあっても、どんなに困難な環境でも、自分の中に「できそうだな」という感覚を育てることができれば、人生は必ず好転する。
5.マネジメントの本質も、子育ての秘訣も、すべてここにある
部下に成功体験を与える、
自分がお手本を示す、
褒めて認める、
体調を気遣う。
これらはすべて、自己効力感を高めるための4つの要素そのものだ。優秀なマネージャーが無意識にやっていることを、理論として体系化したとき、その威力は何倍にもなる。
子育てでも同じ。
「あなたはダメな子」ではなく「あなたはできる子」と伝え続けることの大切さ。それは単なる励ましではなく、科学的根拠に基づいた人間育成の方法論なのだ。
今、草野球で最年長選手として記録を更新し続けているサトウくん。
大谷翔平やイチローの試合を見ると「打てそうな気がする」と笑う。
この感覚こそが、自己効力感の真髄だ。
今すぐ、この物語を体験してください
コンプレックスに悩んでいる人、
自分に自信が持てない人、
部下や子供をどう励ませばいいかわからない人。
大丈夫です。
サトウくんの実体験が証明しています。
人は本当に変われるのです。
すべての人に聴いてほしい、特別な20分間がここにある。
理論だけではない、リアルな体験に裏打ちされた智慧。
今日から使える具体的な方法。
そして何より、「自分も変われるかもしれない」という希望の光。
彼の率直で感動的な体験談は、あなたの心に勇気の火を灯すはずです。
あなたの中に眠る「できそうだな」という感覚を呼び覚ます物語が、ここから始まります。聴き終わった後、きっとあなたは鏡の中の自分に「大丈夫だよ」と言いたくなるでしょう。
PS
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あなたが幼稚園に行っていた頃、一人の少年は撮影現場でベッドに横たわり、死亡役を演じていました。上から大人の役者がかぶさってくる中、その少年の心には深い印象が刻まれていたのです。
今回の「人生配信オンリーワン」第1話のゲスト、サトウくんが語るのは、まさにその時の体験から始まる驚異的な人生哲学です。
「太った子どもの小役」というコンプレックスに苦しんだ幼少期が、後に人生最大の武器となった奇跡の物語。それは単なる成功談ではなく、私たち全員が今すぐ実践できる生き方の革命でした。
1.幼稚園に行けなかった子役
朝4時。千葉市の住宅街はまだ薄暗い中、一台の黒塗りのクラウンが静かに停車します。座席には黒いカバーがかけられ、まるでVIPを迎えに来たかのような重厚な雰囲気。しかし車に乗り込むのは、まだ幼い一人の男の子でした。
この男の子の名前は佐藤一明、通称サトウくん。
彼がこれから向かう先は、伊豆の海辺や都内の大別荘での撮影現場。なぜなら彼は、2歳の頃からテレビ、映画、CMなどの子役だったからです。
「僕は幼稚園に行ったことがないんですよね」
現在、金融系企業で役員を務めるサトウくんが、そう静かに口にした時、配信を聞いている私たちは一瞬言葉を失います。幼稚園への憧れを今でも抱き続ける彼の人生は、まさに「普通」とは真逆の道を歩んできたのです。
2.コンプレックスと、それを跳ね返すリベンジの人生
当時の子役界は、クリクリした目の可愛いハーフの子どもたちが主流でした。サトウくんは、女性セブンに掲載され、人気アイドルのドラマにも出演していたような子役とは違いました。ハーフでもない、どちらかというとぽっちゃりした「健康優良児」。その一風変わった存在感こそが、彼の武器だったのです。
しかし、成功の裏には深刻な苦悩がありました。大別荘での金持ちの息子役の撮影。周りには監督、カメラマン、照明、音響…約20人の大人たちが彼を取り囲みます。「はい、スタート!」その瞬間、極度の緊張から彼を襲ったのは吃音症でした。
「ど、ど、どうして…」言葉が出てこない。
焦れば焦るほど、どもってしまう。袖から心配そうに見つめる母親の顔が目に入ると、さらに焦りは増していきます。子どもながらに感じる周囲への迷惑、そして自分への失望。これらすべてが、後の彼を形作る「原体験」となっていたのです。
「僕の人生は、コンプレックスとそれを跳ね返すリベンジの人生なんです」
太っていることへのコンプレックス、吃音症への恐怖、幼稚園に通えなかった疎外感、同世代の子どもたちとの圧倒的な経験の差。これらのコンプレックスが、彼の人生を動かす原動力となったのです。
そして現在。あの「健康優良児」だった子役は、金融系企業で役員を務めています。人事部長として10年間のキャリアを積み、株主総会を経て2期目の役員として活躍中。反抗期もなく大人になった彼の人生には、一体どんな秘密があるのでしょうか。
特殊な幼少期を過ごした人が、どのようにしてビジネスの世界で成功を収めたのか。コンプレックスをどうやって武器に変えたのか。そして今も続く「リベンジ人生」の全貌とは。
3.コンプレックスが最高の財産に変わる瞬間
「僕の中にある印象としては、やっぱり太った子役みたいな、それがずっとあって」
幼少期という多感な時期に感じたこのコンプレックスが、実は彼の人生を豊かにする土台となっていったのです。
なぜなら、その特殊な環境こそが彼に「役割の重要性」を教えてくれたから、撮影現場では一つ一つのパーツが重要で、どんな小さな役でも全体を支える大切な存在だということを、幼い彼は肌で理解していました。
この経験が、後に会社という組織の中でも「パーツとしての重要性」を自然に理解し、プレッシャーを感じることなく、様々な役割をこなせる大人へと成長させていったのです。
4.無意識の演技を意識化する革命
数十年後、人事の仕事に携わったサトウくんが出会ったのが、アメリカの心理学者ドナルド・スーパーの「キャリアレインボー理論」でした。
この理論は、人間は様々な役回りを持ち、それらが多いほど豊かな人生を送れるというもの。まさに幼少期から実践していた彼の生き方と完璧に重なったのです。
「あ、良かったんだ」と感じたその瞬間、彼の中で全てが繋がりました。
私たちは皆、毎日無意識に様々な役を演じています。会社員として、親として、友人として、そして一人の人間として。しかし、多くの人はそれを意識していません。
「無意識でやってるっていうのはもったいない」とサトウくんは語ります。
意識するだけで、お父さんの顔、会社の顔、プライベートの顔が全く変わってくる。見え方も視点も気づきも、すべてが劇的に変化するのです。
5.株式会社「自分」の社長としての経営戦略
さらに革新的だったのは、マーケティング理論を自分自身に応用するという発想でした。
自分は、株式会社「自分」の社長なわけだから
企業がセグメント分析をしてポジショニングを決め、ターゲットを設定して4P戦略を展開するように、私たち自身も同じことができるのです。
自分のポジショニングはどこにあるのか?
ターゲットとする相手は誰なのか?
そして自分という商品をどう磨き、どうプロモーションしていくのか?
この戦略が明確な人は魅力的で、人が自然と近寄ってきます。そして新しいコミュニティが生まれ、また別の顔、別の役割が生まれていく好循環が始まるのです。
6.ただし、大根役者では売れない
しかし、ただ役を演じるだけでは不十分だとサトウくんは警告します。
「大根役者じゃ、どんな役をやってても売れないよ」
自分の見せ方、演出の仕方、そして役作りのすべてを自分で考え抜いてこそ、上のステージに行けるのです。
これは決して表面的な演技の話ではありません。
学び続けること、成長し続けること、そして自分自身を深く理解することが、真の「役者」になるための条件なのです。
7.あなたの人生脚本を今すぐ書き換えませんか?
この配信は、単なる成功体験談ではありません。
幼稚園での特殊な体験から始まり、心理学理論、マーケティング戦略まで、人生の「脚本家」「演出家」「主演俳優」すべてを自分で担う具体的な方法を教えてくれる、実用的な人生講座です。
この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく「人生」というものについて、全く違う見方をしているはずです。今すぐ再生ボタンを押して、サトウくんの壮絶で感動的な人生ストーリーに耳を傾けてみてください。
そして次回、小学生編では、さらに予想もつかない展開が待っています。
PS
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この配信は、単なる成功談ではありません。
大企業で30年間、海外でグローバルに戦い続けた一人の男が、ついに自分だけの使命を見つけるまでの、リアルで生々しい人生ドキュメントです。
キャリアに悩むあなた、海外挑戦を考えているあなた、起業を検討しているあなた、そして日本の未来に想いを馳せるあなたにとって、必ずや新たな気づきと勇気を与えてくれる内容となっています。
沢野さんの率直で時に迷いも見せる語り口から、あなたも自分の人生について深く考えるきっかけを得られるはずです。
大企業での安定した地位を捨ててまで追い求めた「本当にやりたいこと」とは何だったのか。その答えを、ぜひあなた自身の耳で確かめてください。
1.経営企画部門、華やかなキャリアの裏に潜む“違和感”
「テンション、むっちゃ下がってますね...」
配信の途中で思わず指摘されてしまった沢野さんの表情の変化。実はそこに、多くのビジネスパーソンが抱える深刻な問題が隠されていました。
ドイツ駐在から帰国し、誰もが羨む「経営企画部門」に配属された沢野さん。
中期経営計画の策定、戦略立案、M&A案件、そしてPMI(ポストマージャーインテグレーション)まで、まさにエリートコースを歩んでいました。
取締役会議の事務局を務め、構造改革プロジェクトを率いる日々。周囲から見れば、これ以上ない華やかなキャリアだったはずです。
しかし、沢野さんの心の中には、言葉にできない違和感が渦巻いていました。
「やりたいことではないというわけでもないけれど、ちょっと違う世界だった」。
そんな微妙な感情を抱えながら、気がつけば7年という歳月が流れていたのです。「7年も経ってようやく分かれよ、という話なんですけど...」と苦笑いする沢野さん。多くの人が経験するであろう、このキャリアの迷いと向き合い続けた7年間でした。
2.エリートから挑戦者へ──中国転職がもたらした本当の輝き
そして転機が訪れます。
安定した日本企業を離れ、中国企業への転職を決意したのです。なぜ中国だったのか。そこには、日本の製造業の現実を海外で目の当たりにした沢野さんの深い洞察がありました。中国ビジネスの圧倒的なスピード感、迅速な意思決定プロセス、そして何より構築できた貴重な人的ネットワーク。
「エネルギー高くなってますね、今!」
配信者に指摘された通り、中国企業での経験を語る沢野さんの表情は一変していました。そこには、自分が本当にやりたいことを見つけた人特有の輝きがありました。
3.世界で戦えるリーダーを育てたい──
沢野さんの起業による新たな挑戦
中国企業で日本のカントリーマネージャーとして働きながら、沢野さんの心には新たな使命感が芽生えていました。「日本の中堅企業を外に出していくサポートをしたい」「それを実現できるグローバルリーダーを育てたい」。そんな想いが、2023年12月の起業へと導いたのです。
会社名は「グローバルエクセレンス」。
「グローバルエクセレンスに生きようぜ」という想いを込めて名付けられました。世界とお客様をスマートに繋ぐパートナーとなり、世界で活躍できるグローバルリーダーを育成する。それが沢野さんの描く未来図でした。
「本当に日本の企業の方がどんどん世界に出て行って、商売していく。
中小の方でも海外ビジネスを当たり前にできるような、そんな世界を作りたい」
沢野さんの夢は壮大でした。個人の成功を超えて、日本全体を豊かにしたいという社会貢献への強い意志がそこにはありました。
4.中国コネクションが開いた新世界
偶然とも必然とも言える中国でのコネクション構築が、沢野さんのビジネス人生を一変させました。
「安くていいものを欲しがるお客さんを助ける」というシンプルな哲学の背景には、製造業の現場で培われた深い洞察がありました。
彼がどのようにして海外との橋渡し役となり、お客様に本当の価値を提供できるようになったのか。その具体的なプロセスを詳しく解説しています。
5.一億円への道のり
「まずは1000万円から5000万、そして1億という形で売上を上げていきたい」と語る沢野さん。
この言葉は単なる夢ではありません。
製造業の海外進出をサポートする独自のビジネスモデルを構築し、着実に成果を上げ続けている現在進行形の挑戦なのです。
特に海外進出を望む製造業の経営者や、グローバル市場でのリーダーシップを求める企業にとって、沢野さんのアプローチは革新的でありながら実践的です。
6.グローバル人材育成の真実
実は沢野さん、『グローバル人材育成の教科書』という本の著者でもあります。
インバウンド対応の悩みをゼロにする グローバル人材育成の教科書[外国人観光客を相手に成果を出す人はこう考え、こう動く!]| 沢野 純一|本 | 通販 | Amazon
しかし彼の教える内容は、一般的なビジネス書とは一線を画します。
「もう口角を自分で上げてくださいって僕のセミナーでは言っちゃいます」という言葉に象徴されるように、テクニックではなくマインドセットから変革を促します。
海外で笑顔で仕事を楽しむために必要な要素として、チャレンジ精神、異文化理解と対応力、英語でのコミュニケーション力、そして課題発見・解決能力を挙げる沢野さん。
しかし最も印象的なのは、
「ちょっとしたことだと思うんですよ。楽しく仕事しちゃうとか、チャレンジしちゃおうかなと何でもいいんですけど」という彼の言葉です。
複雑に見える国際ビジネスも、実は小さな一歩の積み重ねから始まることを教えてくれます。
7.現在進行形の成長物語
このエピソードが特別なのは、沢野さんが今まさに成長の最中にあることです。
「これからこう上げていかなくちゃいけない」と語る彼の姿勢からは、成功者の余裕ではなく、挑戦者の熱いエネルギーが伝わってきます。
売上拡大への具体的な戦略、顧問として企業をサポートする現場での実体験、そして日本企業のグローバル化への強い想いまで、すべてがリアルタイムで展開されています。
8.日本への熱い想い
「日本にもっと元気になってもらいたい。
多くの方々に海外に出てもらいたい」
沢野さんの言葉は、単なるビジネストークではありません。グローバル市場で戦い続ける彼だからこそ見える日本の可能性と課題について、熱く語ります。少しでもエネルギーを共有し、相手をインスパイアしたいという彼の想いが、このエピソード全体に息づいています。
なぜ今、このストーリーを聞くべきなのか
円安基調でグローバルビジネスが注目される今、沢野さんの体験談は単なる成功例を超えた価値があります。
AI時代だからこそ求められる人間らしさ、グローバル人材不足が叫ばれる中での具体的な解決策、そして何より「普通の人でも海外で成功できる」という希望を与えてくれます。
理論ではない現場の生の声、失敗も成功も包み隠さない本音のトーク、そして今まさに売上拡大中の進行形ストーリー。このすべてが10分間に凝縮されています。
あなたのビジネス人生を変える10分間
沢野さんのエネルギーと情熱は、画面越しでも確実に伝わってきます。
「少しでもエネルギーの共有ができれば、それでなんか感じてくれたりね、ちょっとだけでもインスパイアーしていただければ」という彼の願いは、きっとあなたにも届くはずです。
海外ビジネスへの恐怖心を克服したい方、製造業での海外進出を真剣に考えている経営者、グローバル人材として成長したいビジネスパーソン、中国ビジネスの実情を知りたい方、そして何より日本をもっと元気にしたいと願うすべての人にとって、このエピソードは必見です。
今すぐこの特別エピソードをご視聴ください。沢野さんの熱い想いと実践的な知恵が、あなたの人生とビジネスに新たな可能性をもたらすことでしょう。
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沢野さんの体験談は、単なる昔話ではありません。
海外駐在を夢見る人だけでなく、現状に満足してしまっている全ての日本人に向けた、挑戦者としての生き方を説いた人生論なのです。
失敗を恐れず、常に動き続ける。マグロのように、止まったら死んでしまうという危機感を持ち続ける。そんな生き方が、今の時代にこそ求められているのではないでしょうか。
動き続けなければ死ぬ。それがマグロの、そして真の挑戦者の生き方です。
1.海外に行きたい想いが実現させた転職
安定した企業で数年間働いた後、彼は一つの夢だけを胸に大きな決断を下しました。海外ビジネスを展開するアルプス電気(現アルプスアルパイン)への転職です。
当時、その会社の6〜7割が海外ビジネス。
沢野さんは車載電子部品を扱う部門に配属され、念願の海外勤務への第一歩を踏み出しました。面接では堂々と宣言したそうです。
「海外に行きたいんです。そのためにここに入ってきました」
2.アメリカ駐在の現実は想像を超えていた
1年間、日本で海外営業の「キャッチャー」として経験を積んだ後、ついにその時が来ました。アメリカのデトロイトへの駐在辞令です。夢が叶った瞬間でした。
しかし、現実は甘くありませんでした。アパート探しから始まり、英語の契約書との格闘。マクドナルドで「ヒア・オア・トゥーゴー?」すら聞き取れない屈辱的な日々。デトロイトの早口英語は、彼の英語力を容赦なく打ち砕きました。
さらに重くのしかかったのは、駐在員としてのプレッシャーでした。現地スタッフより高い給料をもらっている以上、それ相応のパフォーマンスを求められる。
「こいつはこのぐらいもらってるのに、この程度のパフォーマンスか」という冷たい視線を常に感じながら、フォード、クライスラー、そして日系の自動車メーカーを相手に、エアコンスイッチやパワーウィンドウスイッチなどの車載部品を売り込む日々が始まりました。
3.なぜ彼は潰れなかったのか?
多くの駐在員が現実の厳しさに打ちのめされ、日本人コミュニティに閉じこもってしまう中で、沢野さんは違いました。「海外に行きたいという想いでここまで来たのに、ここで諦めたら自分が目指すレベルに達していない。やるしかない」という強い信念が彼を支えていたのです。
そして彼が口にした印象的な言葉があります。
「なんか動いてないと死んじゃうみたいな、マグロみたいな人間なんです」。
この哲学こそが、彼を常に前進させ続ける原動力でした。
4.現代日本への痛烈なメッセージ
最終的に沢野さんは、アメリカ人と同等に戦うためにMBAまで取得し、真のグローバル人材として成長を遂げました。しかし、彼の目には今の日本の姿が深刻に映っています。
「今の日本人は本当にヤバい。
安定に甘んじていると、それって本当に怠惰だと思う。
世界中が頑張っている中で、日本だけが今までの貯金を食いつぶしている。そこに行っちゃうと、登り上がるのにすごく時間もかかるし、上がれないかもしれない」
この言葉は、現状維持に安住している私たちへの強烈な警鐘です。
5.5年間のアメリカ生活で掴んだ人生の極意とは?
30代半ば、沢野さんは人生最大の決断を迫られていました。
アメリカ・デトロイトへの5年間単身赴任。しかも課せられたミッションは「売上を2倍にしろ」という、まさに背水の陣でした。
最初の3年間、沢野さんは正直に告白します。
「毎週ゴルフしまくって飲んだくれて...そんな生活でした」。
しかし、残り2年でふと我に返ります。このままではいけない。同僚たちと対等に話すために、MBAを取得しようと決意したのです。
「アメリカは入るのは簡単だけど、出るのがむちゃくちゃ難しい。日本の逆なんです」
働きながらのMBA取得は想像を絶する苦労でした。
16科目46単位を夜と週末だけで取得する日々。「半分ぐらいは泣きが入ってました」と振り返る沢野さん。それでも現地の友人たちの温かいサポートに支えられ、ついに学位を取得します。
「彼らがいなかったら絶対に卒業できなかった」という感謝の言葉からは、異国での人とのつながりの大切さが伝わってきます。
6.「しょうがねえな」と言える強さ、ドイツ8年が鍛えた“どこでも生き抜く力”
5年間のアメリカ生活を終え、日本に帰国した沢野さん。新しい電気製品を揃え、「よし、日本で頑張ろう」と意気込んでいたのも束の間。なんと1年後、またしても海外転勤の辞令が下ります。今度はドイツです。
「最新のエアコンも冷蔵庫も買ったばかりなのに、全部安く売り飛ばして...」
こうして始まったドイツでの8年間は、沢野さんのキャリアにとって転機となりました。
BMW、ダイムラー、アウディといったヨーロッパの名だたる自動車メーカーを相手に、ミュンヘン、デュッセルドルフ、イギリス、スウェーデンまで、ヨーロッパ全域のオペレーションを統括する重責を担ったのです。
特に印象的なのは、日本人社長からローカル社長への交代時期と重なったこと。「サポートを強化しなくちゃいけない」という状況の中、5年の予定が8年に延長されることになります。
「しょうがねえな、残るか。まだヨーロッパで行ってないところもあるし」という沢野さんの飄々とした語り口が、長期海外生活を乗り切る秘訣を物語っています。
8年間のドイツ生活で身につけたのは、単なる語学力やビジネススキルだけではありません。
「住めば都って本当に正しい言葉だと思う」という言葉通り、どこでも生きていける適応力と、異文化の中でも結果を出し続ける実行力でした。
7.13年の海外挑戦がつくった沢野さんの“世界力”
日本帰国後、沢野さんにはもう一つの挑戦が待っていました。中国市場への参入です。「中国をやりたかった」という強い想いを持ちながらも、会社からは一度日本に戻るよう指示される。それでも諦めない沢野さんは、中国担当として1年半にわたり現地メンバーと共にプロジェクトを推進していきます。
合計13年間の海外生活。アメリカで学んだ競争の厳しさ、ドイツで培ったマネジメント力、中国で感じたダイナミズム。そのすべてが沢野さんという人間を形作っています。
今すぐ聴いてみて下さい
この配信では、グローバルビジネスの最前線で戦い続けた一人のサラリーマンの、等身大の体験談をお聞きいただけます。成功だけでなく、失敗や迷い、家族との時間、そして何度も訪れた人生の転機をどう乗り越えてきたのか。
もしあなたが今、キャリアの壁にぶつかっていたり、新しい挑戦を躊躇していたりするなら、沢野さんの物語は必ず何かのヒントを与えてくれるはずです。
世界を舞台に活躍することは、特別な人だけの話ではありません。普通のサラリーマンでも、決意と行動力があれば、人生は大きく変わる。沢野さんの13年間の軌跡が、それを雄弁に物語っています。
ポッドキャスト「人生配信オンリーワン」沢野さんエピソード あなたの人生観が変わる20分間を、ぜひお聞きください。
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あなたは今、人生に迷っていませんか?
「このままでいいのか?」と思いながらも、何をしていいかわからない...
そんなあなたに聞いてほしい、一人の男性の物語があります。
埼玉県川越市で生まれた沢野純一さん、通称「Jay」。
現在、サラリーマンをしながら自分の会社も経営するという二足のわらじを履いています。
彼が目指すのは「弱くなった日本の製造業を強くする」こと。
海外進出の支援や、安価な部材の調達、そしてグローバル人材の育成という、まさに彼の経験が活かされる分野での挑戦です。
この配信を聞いてほしいのは、人生の方向性に迷っている学生や社会人、海外経験に興味があるけれど一歩踏み出せない人、転職や起業を考えているビジネスパーソン、そして「普通の人でも人生を変えられる」ということを知りたいすべての人です。
沢野さんの物語から得られるのは、まず勇気です。
「ぼーっと生きていた」人でも人生は変えられるという希望。
そして新しい視点。海外経験が与える価値観の変化の実例。さらに行動力。休学してでも挑戦する決断力の源泉。加えて柔軟性。「何でもあり」という適当さの重要性。最後に実践知。グローバルビジネスの最前線で学んだ生きた知識です。
沢野さんはこう語ります。
「人生に正解なんてない。
でも、一歩踏み出してみれば、必ず何かが変わる。
僕の『適当』な人生が、あなたの背中を少しでも押せたら嬉しいです。」
30年前、新聞社でのバイトがきっかけで海外に飛び出した一人の青年。
その後の歩みは決して順風満帆ではなかったかもしれませんが、彼が手に入れたものは何物にも代えがたい人生の財産でした。
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1.新聞社バイトから始まった、30年のグローバル人生ストーリー
小学校から大学まで、彼自身が「ぼーっと生きていた」と振り返るほど、ごく普通の青年でした。勉強もそこそこ、大学でも遊びとバイトに明け暮れる日々。親も「こいつ大丈夫か?」と心配するほどの、どこにでもいる学生だったのです。
しかし、運命は思わぬ形でやってきました。数あるアルバイトの中で選んだ新聞社での仕事が、彼の人生を180度変えることになったのです。
新聞社には多様な人々が集まっていました。芸能人も出入りし、海外から帰国したばかりの人、これから海外に向かう人。ぼーっと生きていた青年にとって、それは全く別の世界でした。
「あ、なんかこれって面白いんだな。こういう世界があるんだな」
そう気づいた瞬間から、沢野さんの中で何かが変わり始めました。
特に印象深かったのは、海外経験のある人たちとの出会いでした。英語もほとんど話せない、高校時代に交換留学の話が出ても「ふーーん」と他人事のように感じていた彼が、突然「海外」というキーワードに引っかかったのです。まるでスイッチがポチッと押されたかのように。
決断は早かった。大学4年生の時、思い切って大学の休学を決意。どうせ勉強の柄じゃないし、ぼーっと生きてきたのだから、いっそのこと「遊学」をしようと決めたのです。遊ぶための留学。なんとも沢野さんらしい発想でした。
2.エアーズロックに呼ばれて──
遊び心が起業家精神を育てた1年
遊学として行き先に選んだのはオーストラリア。
理由は驚くほど単純で「エアーズロックがあるな」という軽いノリ。しかし、22歳の沢野さんがオーストラリアの地に降り立った時、彼はまだ知らなかった。この経験が、彼の人生観を根底から変え、その後の波瀾万丈な人生の原点となることを。
ワーキングホリデービザで渡豪した沢野さんですが、「働ける」ビザなのに基本的にはホリデーしかしていませんでした。
当時のオーストラリアは今とは比べものにならないほど物価が安く、ビール1本が50円という夢のような時代。100万円程度あれば十分暮らせたため、彼の遊学生活が始まったのです。
特に印象的だったのは、フリーマーケットでの商売体験でした。手作りの折り紙や飛び出す絵本のようなポストカードを作って売る。1日の売上は500円程度でしたが、それでも「お酒代になればいい」という気軽さ。この経験が後の起業家精神につながっているのかもしれません。
しかし、オーストラリアで得たものは遊びの経験だけではありませんでした。アングロサクソン系とアジア系が混在する多様な社会で、様々な価値観を持つ人々と出会い。
英語学校で出会ったインドネシアやマレーシアからの留学生たち。イスラム教の彼らとの交流は、沢野さんにとって毎日が驚きの連続でした。
握手一つとっても、左手と右手の使い分け。
お祈りの時間。
宗教的な考え方の違い。
「毎日がスポンジのように新しい学びを吸収していく感覚だった」と振り返る沢野さん。この多様性への理解と興味こそが、彼の人生を貫く大きなテーマとなるのです。
「みんな適当なことやってるな」と感じた彼は、同時に「何でもありなんだ」「適当に生きていいんだ」という新しい人生哲学を身につけました。
3.一晩XX万円使って、左遷された男の物語
帰国後に待っていたのは、全く異なる世界でした。
1989年、バブル絶頂期の富士電機に入社。自動販売機の営業・マーケティング部門で、沢野さんは日本の「イケイケドンドン」な企業文化に飛び込みます。
「お札でタクシーを止める」という話を聞いたことがある人は多いでしょう。でも沢野さんは、それを実際にやっていた人です。
赤坂での接待、深夜1時にお客様のためにタクシーを止める光景。一晩でXX万円を平気で使う接待文化。パナソニック、三洋など競合他社との熾烈な競争の中で、それが当たり前の世界だったのです。
ところが、新人だった沢野さんに転機が訪れます。ある日、お客様とのXX万円の接待について社内稟議が部長に回ると承認印を反対に押された、「やりすぎだろう」とという示唆を直属の上司(課長)から聞かされました。しかし沢野さんは、会社のための接待であり、適切な顧客対応したという自負もあり、部長のところへ謝罪も行くこともなく平然と過ごしていました。
4.左遷すらチャンスに変える“沢野流”
ところが、突然、高額接待が原因かわかりませんが、(後から聞いた話ではそれが起因していたとのこと)、本社から長野県松本市への左遷通告!。え!マジ!、なんで?
都会のバブリーな生活から一転、山と水に囲まれた地方都市での営業活動が始まりました。
ところが、ここで沢野さの真骨頂が発揮されます。
左遷を嘆くのではなく、新たな環境を楽しみ始めたのです。
長野の地域コミュニティに溶け込み、長野オリンピックのボランティア活動にも参加。資格の取得(宅建士、通関士)をして次のステップへの準備を起動!
「住みやすい街だった」「そして自分の充電期間だった」と振り返る沢野さんの前向きな姿勢には、オーストラリアで培った「新しいことを知る楽しさ」が息づいています。
3年間の長野生活を経て、再び沢野さんの心に芽生えたのは海外ビジネスへの憧れでした。そして転職を決意──。
今すぐ聴いてみて下さい
この配信を聞けば、あなたは時代の証言者となります。バブル時代の実態を生で体験した人の話は、もはや貴重な歴史的資料です。しかし、それ以上に価値があるのは、どんな環境に置かれても学びと成長を見つける沢野さんの人生哲学です。
海外で多様性を学び、バブルの狂乱を体験し、左遷という逆境を乗り越えて次のステップへ向かう。現代を生きる私たちにも通じる、人生の転機との向き合い方がここにあります。
22歳での海外体験が人生観を変えた話から、バブル時代のリアルな企業文化、そして逆境を成長の機会に変える思考法まで。沢野さんの人生第一章は、まさに現代のビジネスパーソンが聞くべき生きた教材なのです。
次回は、転職後の海外ビジネス挑戦編をお届けします。沢野さんの冒険は、まだ始まったばかりです。
今すぐこの貴重な体験談を聞いて、あなた自身の人生に活かしてください。そして、この唯一無二のストーリーを、ぜひ大切な人たちとシェアしてください。
人生配信オンリーワン - 一人ひとりの唯一無二の人生ストーリーをお届けします。
岡安さんは、かつてプロスキーヤーとして雪山を駆け抜けていました。
パラアジアカップ役員にも選ばれ、輝かしいキャリアの階段を一段ずつ上っているかのように見えました。
しかし現実は厳しく、「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実が彼の前に立ちはだかったのです。
20代でスキー競技を諦めることになった岡安さん。
誰にも悲しみを伝えられない状況の中で、人生のどん底を味わいます。
一時は死すら考えた絶望の淵で、彼は何を思い、どのようにして這い上がったのでしょうか。
【衝撃の人生逆転劇】元アルペンスキー選手が語る「絶望の淵から希望への道」
1.一本の電話が変えた運命の物語
「お前、今何してんだ?」
病院のベッドで、もう誰とも話したくないと心を閉ざしていた岡安さんに届いた一本の電話。
その声の主は、現役の時から関わっていた障害者スキーチームのコーチでした。この何気ない一言が、絶望の底にいた元アルペンスキー選手の人生を180度変えることになるとは、この時誰が想像できたでしょうか。
2.栄光から一転、人生最大の危機
岡安さんは現役のアルペンスキー選手として、雪山を駆け抜ける日々を送っていました。しかし、選手生命を脅かす大怪我により、愛してやまないスキーから離れることを余儀なくされます。
手術への恐怖、そして何より、スキーという人生の全てを失った絶望感は想像を絶するものでした。
「死ぬ一歩手前まで考えていた」と振り返る岡安さん。誰とも話したくない、もう何もかもが終わったと感じていた時期が続きました。まさに人生のどん底でした。
3.運命を変えた電話の向こうの優しさ
そんな岡安さんの状況を知っていたコーチは、あえて電話をかけてきました。
「お前、まだ片足が残ってるだろう?
だったらスキーできるだろ?
選手で戻ってこい!」
その言葉は、岡安さんの心に眠っていた可能性を呼び覚ましました。
「ふざけないでくれ!靭帯ごときで片足選手ができるわけがない!」
「あれ?」
「そうだろ!選手としてではなく、また障害者チームのコーチとして戻ってこい」
この提案は、新たな人生の扉を開く鍵でした。
障害者の方々と長く接してきた経験があった岡安さんは、靭帯がなくても自分のスキーを待ってくれてる人がいる!という前向きな気持ちを取り戻していきます。
そして何より、「みんな待ってるよ」という温かい言葉が、再び人とつながることへの勇気を与えてくれました。
4.パラリンピック黎明期での挑戦
30年以上前、今ほどパラリンピックが注目されていなかった時代。
障害者スキーの指導は、スキーが好きな優しいボランティアの方々が行っていました。そこに、現役に限りなく近い技術を持つ岡安さんが加わることで、チーム全体のレベルが劇的に向上しました。
特にブラインドスキーでは、視覚障害者の選手が強すぎて、その前を走るガイド役のパートナーが見つからないという問題がありました。元プロスキー選手である岡安さんなら、その役割を完璧にこなせる。彼は自分だけのポジションを見つけ、選手を勝利へと導いていきました。
5.夢の舞台への切符と、理不尽な現実
1994年リレハンメルパラリンピック。
岡安さんはナショナルチームのコーチとして、合宿にも参加していました。夢の舞台まであと一歩。しかし、最終選考の段階で政治的な圧力が入り、担当していた選手が代表から外されてしまいます。
「お前だけでも行ってくれ」と言われた岡安さんでしたが、彼の答えは明確でした。
「僕はその選手のためにコーチになった。他の人のコーチはやりたくない。それがオリンピックでもパラでも関係ない」
信念を貫き、大喧嘩の末に干されることになっても、岡安さんは自分の判断を後悔しませんでした。
6.人生の真の価値とは
岡安さんのその後の人生は、ジャパラ(障害者スキーの国内最高峰大会)の役員、アジアカップの運営、長野パラリンピックでのサポートなど、障害者スポーツ界への貢献で彩られています。競技者としての栄光は手放すことになりましたが、多くの人の人生に光を与える存在となりました。
絶望の淵にいた時に受けた一本の電話。それは単なる偶然ではなく、人とのつながりが生み出した奇跡でした。人生は予想もしない形で転機が訪れ、思いもよらない場所に新たな可能性が待っているのです。
7.大手電機メーカーでの24年間、そして運命の一日
「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実に直面し、26歳で初めてサラリーマンの世界に足を踏み入れた岡安さん。
大手電機メーカーでイベント業務を担当することになりました。持ち前のリーダーシップと現場を仕切る才能で、イベント現場のリーダーから新会社の事業立ち上げ、社長秘書、そして事業戦略室メンバーへと次々に昇進を重ねていきます。
24年間という長い歳月を大手電機メーカーで過ごし、順風満帆なサラリーマン生活を送っていました。
しかし、47歳のある日、運命が彼を待ち受けていました。
ハードワークが続く中での現場の掛け持ち。ようやく訪れた休日。
その日、脳卒中で自宅で意識を失い、救急搬送されたのです。医師も匙を投げるような状況で、家族が涙を流す中、息子の必死の呼びかけによって奇跡的に意識が戻りました。
8.死の淵で見つけた本当の答え
「毎晩眠るのが怖かった。
目を閉じたら死んでしまうと思って...
でも朝起きると嬉しくて涙が出るんです」
生と死の境界線で、岡安さんが気づいたのは、お金や地位では決して満たされない、本当に大切なもののことでした。20代で味わった絶望の自分を救済できていない。同じように苦しむアスリートたちの心の声を聞いてあげる人がいない。そんな思いが彼の心に蘇ってきたのです。
入院中にキャリアカウンセラーの資格を取得し、ソニーからマクドナルドへ、そして独立へという驚きの転身を遂げることになります。
9.生かされている理由
今の岡安さんは、力強くこう語ります。
「僕が今生きてる理由は、求める人がいるから生かされてる。
その人たちに答えるのが僕の存在価値であり、生きてる理由です」
なぜ彼は、そこまで強い使命感を持てるのでしょうか。死線を越えた人間だけが語れる、生きることの本質とは何なのでしょうか。
10.あなたも岡安さんの声に耳を傾けてみませんか
もしあなたが人生の方向性に迷っているなら、
キャリアチェンジを考えているなら、
困難な状況から立ち直りたいと思っているなら、
本当の生きがいを見つけたいと願っているなら、
この配信はあなたの心に深く響くはずです。
プロスキーヤーからサラリーマン、そして2度の死線を越えてカウンセラーへ。この奇跡的な人生転換ストーリーを、あなたの耳で、心で、確かめてください。きっと、あなたの人生観が変わるはずです。
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岡安さんの生きざまを体感し、一度きりの人生を本当に大切なもののために生きるヒントを見つけてください。
求める人がいるから生かされている──そんな生き方があることを、岡安さんが教えてくれます。
なぜ今、この物語を聞くべきなのか
現代社会を生きる私たちにも、人生の転機は必ず訪れます。
それは挫折かもしれないし、思わぬ出会いかもしれません。岡安さんの物語は、どんな絶望的な状況にあっても、人とのつながりと自分の信念があれば、必ず新しい道が開けることを教えてくれます。
30年以上前のパラスポーツ界の貴重な証言でもあるこのエピソードは、障害者スポーツがどのような人々の情熱によって支えられてきたかを知る貴重な機会でもあります。
そして何より、一人の人間が持つ強さと優しさに、深い感動を覚えることでしょう。
「人生配信オンリーワン」で描く真実の物語
人生にはそれぞれ異なるストーリーがあり、一人ひとりがオンリーワンの体験を持っています。今回の岡安さんの回は、特に心に響く内容となっています。一本の電話が人生を変える。その事実は、あなたの人生にも新たな可能性があることを示しています。
1.いじめられっ子が雪上で覚醒
東京・大森で生まれ育った、体が小さくて弱い一人の少年がいました。
地元のコミュニティでは、いつもいじめられる側の存在。そんな彼の人生が、ある日のスキー教室で劇的に変わることになります。
実は、それは単なるスキー教室ではありませんでした。選手発掘プロジェクトだったのです。そして驚くべきことに、普段はいじめられていたその少年が、スキーを履いた瞬間、先輩たちに勝ってしまったのです。
「スキーを履いていないといじめられるけれど、履くと急に強くなる」—この発見が、彼の運命を決定づけました。
2.小学6年生が白馬村に住込みスキー修行
東京の子が本格的にスキーを続けるには限界があります。小学校を卒業する時、両親は「もういい加減にしなさい」と言われるほどです。
普通なら、そこで夢は終わったでしょう。ところが、コーチが「そんなことを言わないで、なんとか続けさせてください」と両親を説得したのです。
そして提案されたのが、今では考えられない解決策でした。
白馬村の旅館に住み込みで働きながら、地元の子たちと一緒にスキーを続けるという、まさに奇跡のような環境だったのです。
小学6年生の岡安さんは、本当に白馬村へ旅立ちました。大学生たちと同じタコ部屋で生活し、旅館の手伝いをしながら、時にはその大学生たちにスキーを教えて、空いた時間で自分の練習に励むという信じられない日々が始まったのです。
信じられないような環境でしたが、岡安さんにとってそれは苦痛ではありませんでした。なぜなら、スキーが心底好きで仕方がなかったからです。
3.障害者チームをサポートする小学4年生
さらに驚くべきことに、岡安さんは障害者チームのサポートも始めました。片足の方やチェアスキーの方々の東京から白馬への移動や宿での生活、そしてスキー場でのサポートまで、その頃からこなしていたのです。荷物の積み下ろしから現地でのお世話まで、「僕にできることは全部やる」という姿勢で、障害者の方たちと一緒に合宿に参加していました。
中学、高校時代も、この驚異的な生活は続きました。平日は東京の学校に通い、休み前になると夜行を乗り継ぎ土日や長期休みには白馬へ。そしてまた夜行を乗り継ぎ、東京へ戻り荷物を持ったままそのその足で学校へ。
毎週のように行ったり来たりを繰り返しながら、朝6時から夜11時まで、時間がある限りひたすら滑り続けました。普通の学生が遊んでいる時間も、宿での夕食の手伝いや掃除をした隙間時間に、スキー靴を履いて山にいるような生活でした。
4.高校1年生のプルスキーヤー、規格外の挑戦にスポンサーが惚れた瞬間
運命の高校1年生。16歳の時に、岡安さんのこの規格外の生活を「面白い」と評価してくれる人が現れました。某スキーショップがスポンサーがついたのです。
「板を出してあげる」「ウェアを出してあげる」「お小遣いもあげる」
ここからが、本格的なプロスキーヤーとしての道のりの始まりでした。
しかし、岡安さんは表舞台には立っていませんでした。「アングラなので」と本人が語るように、全中やインカレ、インター杯といった公式大会には出場せず、まさに「秘密兵器」として隠され続けていたのです。
それでも彼が戦っていたのは、1/1000秒を削るという異次元の世界。アルペンスキーでは1/100秒は当たり前、トップレベルになると1/1000秒まで見る、そんな狂気じみた精密さが求められる競技だったのです。
大学に進学してからも、岡安さんは数社のスポンサー企業に支えられながらスキー人生を歩んでいました。プロとしての将来への道筋も見えていました。
5.足が違う方向に…16歳の天才を襲った悲劇
しかし、運命は残酷でした。大学2年の時、大会中に転倒、突然の靱帯断裂。
「足が違う方向いちゃってた」という衝撃的な状況でも、興奮状態で痛みを感じず、片足で滑りだそうとしましたが、左足がついてきませんでした。その重大さになかなか気づけなかったといいます。
この怪我が岡安さんの人生を一変させました。
それまで共に切磋琢磨していた友人たちは、実は全員がライバルでした。
親とも喧嘩しながらスキーを続けていた彼には、この悲しみを分かち合える相手がいませんでした。
「誰にも悲しみを伝えられない」状況の中で、岡安さんはどんどん心を閉ざしていきます。
さらに追い打ちをかけたのは、適切な治療を受けられないことでした。
当時の日本では靱帯の再建手術技術が十分でなく、2年間も病院をたらい回しにされてしまったのです。その間に、切断された靱帯は体に吸収されて溶けてしまいました。「要は左の前十字靱帯はなかったので、常に包帯ぐるぐるで、それでも膝の脱臼癖がついてしまって早歩きさえもできなかったんですね、僕ね」と岡安さんは振り返ります。
6.絶望からの復活へ、
アスリート復帰を懸けた奇跡の手術
絶望の淵にいた岡安さんに転機が訪れたのは、2年後のことでした。
スキーのナショナルチームのドクターとの偶然の出会い。そのドクターは「俺なら直せる」と断言し、日本ではまだ症例の少ない最新の人工靭帯を入れた膝の再建手術を提案してくれました。ただし、条件がありました。学会に発表するためのサンプルとして手術を受けること、そして必ず競技復帰を果たすこと。
岡安さんは迷わず「全然戻りたいです」と答えました。この手術は普通の治療とは全く違っていました。アスリート復帰を前提とした特別な手術で、手術の2週間前から入院してひたすらトレーニング。
「体ぶよぶよになっちゃってた」彼を、2週間でみっちり鍛え上げてから手術に臨んだのです。腰から腱を取り出して複雑に組み合わせる大手術でしたが、見事に成功しました。
7.0.004秒の壁──そして訪れた解放の時
手術から1〜2ヶ月後、退院時の検査で反射テストを行いました。
結果は0.004秒の遅延。医師は「全然誤差だろう、もうほぼ大丈夫だよ」と言ってくれましたが、1/1000秒の世界で戦ってきた岡安さんには、この0.004秒が許せませんでした。
「僕は1/100、1/1000削ってやってたので、0.004の遅延はもう異常値であるってことに」なってしまったのです。
加えて2年間のブランクへの不安、もう一度あの状態に戻されることへの恐怖心。様々な要因が重なり、岡安さんは悩みに悩みました。
そして最終的に、せっかく治してもらったドクターに
「俺無理です。引退させてください」と告白したのです。
予想していたのは叱責でした。
しかし、ドクターの反応は意外なものでした。
「お前の人生だから好きにしなさいよ」そう言われた瞬間、岡安さんの中で何かが吹っ切れました。
「すごいすっきりした顔をしてたと思いますね」と本人が振り返るように、長い間抱えていた重荷から解放された瞬間でもありました。
今すぐ聴いてみて下さい
この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく何かが変わっているはずです。
小学生で単身白馬に渡り、逆境をチャンスに変え続けた岡安さんの人生は、まるで映画のようなストーリーです。しかし、これは紛れもない実話なのです。
1/1000秒という想像を絶する精密さの世界で戦っていた男の美学、突然の怪我がもたらした絶望と孤独、2年間の治療困難な状況、奇跡的な手術との出会い、そして最後の引退決断まで。
これほど濃密で劇的な人生を、これほど淡々と、それでいて深く語れる人はそう多くありません。
「普通の人はだって、経験できないっすもん」
岡安さんの言葉通り、この体験は確かに普通では味わえないものです。
だからこそ、この配信には計り知れない価値があります。
挫折を知る人には深い共感を、
順風満帆な人生を送っている人には新たな視点を、
そして全ての人に「人生とは何か」を考えさせてくれる貴重な時間となるでしょう。
天才的な才能を持ちながら突然全てを失い、それでも新たな人生を歩み始めた男の生き様。
高校生でプロになるという栄光から2年間の地獄、
そして奇跡の手術、最後の引退決断まで。
あなたの人生観が確実に変わる20分間がここにあります。
今すぐ「人生配信オンリーワン」岡安さん回を再生して、この奇跡のような人生譚に耳を傾けてください。きっと、あなたの心に深く刻まれる物語となるはずです。