みなさんこんにちは。本日は、死後の魂について、そして私達の務めについて、アブラムの救いを確認しながらお話させていただいておきたいと思います。
正しい福音を確実に聞いたことがあったかどうか分からず、ですので福音に対して信じる応答をできたのか、信じなかったのか、そもそも福音を聞かずして亡くなられたのか、そのような方々の魂の行き先がどうなったのか、私たちは、安易に論じることができないのではないかなあ、と僕は思っています。
というのは、福音を信じなくて旅立たれたように見える方がいたとしても、神様は、人に直接啓示を与えることができるので、その方が死ぬ1秒前にその啓示によって信仰を持つことだってあり得ると思うんですね。だから、最終的にどうなったかは天国に行かないと分からない。ですので、僕たちは断定的に魂の行き先を論じることはできないんじゃないかなあというのが僕の立場なんですね。
私たちが天国に行った時、思いがけない人に再会できる可能性があると思うんですね。え?いつの間に信じてたの?って。
だから、出会った全ての人の救いのために祈っていくということは、とても大切なことなのではないかなと思うんですね。
一方、信仰を持った者としての務めは、あらゆる人に正しい福音をのべ伝えていくことだと思うんですね。そのために私たちは、周りの家族や友人より先に救われたんじゃないでしょうか?
あらゆる人に正しい福音を宣べ伝えるという言い方をしているのは、未信者の方だけでなく、信者と思われている方に対しても正しい福音を宣べ伝えていく必要があるのではと私は思っているんですね。
それには2つ理由があって、1つは、正しい福音を聞いて信じてその人は救われていても、その人が必ずしも正しい福音のバトンパスができるとは限らないから、正しい福音、正しい救いの教理を確認することは非常に大事なのではないかなと思うからなんですね。
もう1つは、自分は洗礼も受けたしクリスチャンだと思っていたのに、死んでみるとそこは天国じゃなかった、という方がめちゃめちゃたくさんいる可能性があると僕は思うからなんですね。
救いにおいて重要なことは、洗礼を受けたかどうかではないんです。神様を信じたかどうかでもないんです。
キリストが私たちの罪のために死なれて、葬られて、3日目によみがえられ、今も生きておられるそのような救い主なるお方だと信頼するかどうかが救いの分かれ道なんですね。
つまり、ただ単に神を信じるとかではなくて、キリストが何をされたどのようなお方なんだという信仰の内容があるということが重要なんですね。キリスト教でいう救いに至るためには、救いに至るための信仰の内容が必要なんですね。
言葉が悪くて申し訳ないですが、内容のない信仰のことは妄信とか、狂信と言うんですね。
聖書信仰というのは、聖書の1巻目の創世記から始まって、常に信仰には内容があるんですね。内容とは神様の言葉です。
例えば、アブラハムが、名前がアブラムだった当時、創世記15章の話です。15章の5ー6節で、天のパパに数えきれない満天の星空の下に連れて行かれて、空の星の数のようにあなたの子孫を増やすということを改めて言われて、そうなんだとついに信じたからその時にアブラムは救われたんですね。
"そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。"創世記 15章5~6節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会
ある人は、これはアブラムが主を信じたから救われたんであって、内容は関係ないようなことを言うんですけれど、どう読んでも聖書からはそうは読み取れないんですね。
アブラムはそれまでもすでに神様のことを信じてたんです。創世記の11章の最後から始まって、神様の事を信じ、信頼していたから、故郷を捨てて、行き先がよくわからないにも関わらず、神様の命令に従って出発していたんですね。神を信じていたからです。
"ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」"創世記 13章14~17節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会
そして子孫の事も、数えきれない地のちりのように増やすということを言われていたんですね。でも、そのことを、それなりに信じていたとは思うんですが、どこかでぴんときていなかったんですね。その証拠に、
"アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」"創世記 15章2~3節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会
と神に対して創世記15章の2ー3節で文句を言っているんですね。神のことを信じていたから、移住もしてきたし、子孫の約束もそれなりにしんじていはいた。でもどこかでピンときていなかったから文句をいっている。
ところが、創世記15の5節の時、満点の星空の下に連れていかれ、再び、子孫の祝福を天のパパに言われた時、ついにアブラムは、本当にそうなるんだ。天のパパはそのように実現してくださるんだと確信を得たんですね。その時に彼は救われたんです。信仰の対象はつねに神だけれども、救われるためには、その神がどのようなことを為してくださる、なしてくださった神なんだという信じるべき信仰の内容があるんですね。
とても大事なことなのでここで整理させてもらっておくと、聖書の述べる救いとは、大きく4つの重要なポイントがあるということが分かるんですね。
①信仰の対象は常に三位一体の神です。
②救いの方法は、恵みによって信仰によってです。人間の行いではない。
③救いの土台は常にキリストの死、メシアの死なんですね。イエス様が、十字架上で完了した。ギリシア語で言うとテテレスタイ、つまり完済したっておっっしゃられたのは、全ての人類のための贖いの代価を完済したという意味なんですね。全ての人類のためなので、アダムのためでもあり、アブラハムのためでもあったんですね。だから、救いの土台は常にキリストの死なんですね。
④ところが信仰の内容というのは、神様は徐々に徐々に啓示の内容を増やしていかれたので、その時代によって啓示されていた内容に限界があるので、救いに至る信仰の内容というのは、時代によって変わっていくんですね。
キリストが死ぬというのが初めて啓示されたのは、アブラハムより随分後の預言者イザヤになって初めてなんですね。
だから、一部の神学者が、私達は十字架を振り返る信仰によって救われたが、アブラハムは十字架を待ち望む信仰によって救われたと言っているんですが、それは間違っていることが分かるんですね。新約聖書の時代になって初めて啓示された内容を旧約の時代に読み込み過ぎているんですね。神様は、徐々に徐々に福音の全貌を啓示されていかれたので、各々の時代の人は、その時代の段階で啓示されている範囲の内容に応答して救われていったんですね。
神の視点からは、常に救いの土台は、キリストの十字架上での死であるけれど、神は人間に対しては、その福音の全貌を徐々に徐々に啓示されていったので、その時代の段階で神から啓示されていた内容の範囲内でそのことに応答して救われていったんですね。だから、信仰の内容は、時代によって変わる。
この4つをもう1度整理すると、①信仰の対象は常に三位一体の神。
②救いの方法は、恵みによって信仰によるのであってどの時代でも行いではない。
③救いの土台は常にキリストの死である。
④信仰の内容は、神が徐々に徐々に福音の全貌を啓示していかれた関係上、時代によって変わるということなんですね。
話は戻りますが、だから、洗礼を受けたから救われるんじゃないんです。神様を信じたら救われるんでもないんです。
イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、3日目によみがえられた、つまり今も生きておられるそのようなお方だと信頼するから救われるんです。
仏教の釈迦も、イエスラム教のマホメットも死んでしまっているので、救う力がないんですね。
でも唯一キリストは、私たちの罪のために死なれ、葬られ、3日目によみがえられ、それ以来ずっと生きておられ、永遠に死なれないんですね。そのようなお方がだから、私達を救うことができるんです。だから、そのような方だとキリストを信頼するから私達は救われるんです。
大事なことなんで何度も言いますが、キリスト教信仰には、内容があるんです。内容のない信仰は妄信であり狂信なんです。
だから、私達は、救いに至る信仰の内容である福音を宣べ伝えていかなければいけないんですね。
第1段階、知識として、知らない人に教えてあげないと、その人は、それに応答できないんです。
僕は、ある時まで、福音を宣べ伝えたときにその人が信仰を持たなければ失敗だと、そんな風に認識してしまっていたんですね。だから、福音を宣べ伝える事にすごい抵抗感があったというか。
でも今は、福音を宣べ伝えたその場でその人が信じなくてもいいと思っているので、すごく楽に福音を宣べ伝えられるようになったんですね。私はこの5ヶ月間、Webデザインと動画編集の求職者支援訓練で大阪のパソコンスクールに通っていましたが、卒業するまで学校を辞めなかったクラスメイト全員と先生に福音を伝えたんですね。誰もまだ信じていないんですね。でも私達の務めというのはそれをすることなんですね。福音の種を蒔く。あとは、本人の信じる自由意志と、タイミング、そして神様の働きなんですね。聖霊様の働きによって、段々と理解が開かれ、ある時、キリストが、死なれ、葬られ、どうも3日目にみがえられたというのは歴史的事実だと分かってくるんですね。そしてさらに、自分は自分の力では修理不可能な罪人だという罪の認識が芽生え、その罪のためにキリストが死んでくださり、葬られ、3日目によんみがえられたと分かってくるんですね。だから、まず知識として福音の内容を知らないといけない。そしてある段階でその人は、その内容が真実なのだと同意する。そしてついにはキリストがそのような救い主なるお方だと信頼して全人生を委ねる決心をする。その時に人は救われるんですね。知識→同意→信頼というプロセスをふむんですね。
もちろん同意して信頼する決心を促すまで導けるということがベストだと思うんですが、それは、第1段階の情報として福音の内容を提供してあげるということなくして始まらないんですね。だから、正しい福音を宣べ伝えるというのは、とても大切だし、福音を信じていないのに洗礼を受けたから救われたと思っている人のためにも、福音を信じたから救われているけれど、正しい福音をバトンパスできない人のためにも、正しい福音と正しい救いの教理を宣べ伝えていくというのはとても大事なんじゃないかなと僕は思っているわけなんですね。
皆さん、皆さんは正しい福音、正しい救いの教理が共有されている地域教会、群れに属されていますか?日本全国の救いのために、是非とも福音伝道をチームでやっていって欲しいんです。ですので、是非正しい福音をベースに共有しているチームに属して歩んで行ってほしいと願っています。
アブラムの救いから日本の福音宣教を考える.m4a