教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第161回目は「明その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
16世紀後半、万暦帝の時代に明は急速に国力を低下させる。幼少のころは内閣大学士の張居正が補佐し、一条鞭法などの諸改革により国内は安定した。しかし、成人後は宦官を重用し、自分は後宮に閉じこもってしまった。宦官の権力独占を批判する顧憲成が率いる東林派と、宦官らの勢力との闘争が激化し、政治は混乱する。
北虜南倭に続き、豊臣秀吉による朝鮮出兵、東北地方でのヌルハチによる明からの独立への対応で財政難は深刻化した。その穴埋めのための重税と飢饉が重なり、各地で農民反乱が勃発し、1644年に反乱軍の李自成に北京を包囲され、明は滅亡した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第160回目は「明その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
永楽帝の死後、明は北虜南倭と言われる北方からモンゴル系民族、南方沿岸から倭寇という二つの勢力に脅かされた。1449年、6代目の正統帝がエセン=ハン率いるオイラトの捕虜となる土木の変が起き、1550年には、アルタン=ハンが率いるタタールにより北京が包囲されている。
倭寇とは、13世紀末から16世紀にかけて東アジアの海域を荒らした海賊集団の総称で、日本人中心の前期と、明の海禁に反発する中国人中心の後期に分けられる。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第159回目は「明その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
永楽帝は国内の基盤を固めると同時に空前絶後のプロジェクトを開始する。それが鄭和(ていわ)の南海遠征。船団を東南アジアやインド洋に派遣した。遠征の主な目的は明が「世界の中心」であることを誇示し、周辺諸国に皇帝への挨拶(朝貢)を促すことにあった。
遠征の規模は1405年から1433年までに計7回。最大で約60隻の「宝船(ほうせん)」を含む200~300隻の大艦隊で人員は約2万7000人以上だったとされる。遠征は大成功をおさめるが、永楽帝の死後、莫大なコストや北方の脅威、保守的な批判から急速に縮小し中止された。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第158回目は「明その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
洪武帝には20人以上の子がおり、彼らに領地を与えて各地の王としていた。2代目皇帝の建文帝は諸王抑圧策を実施する。これに対して燕王は靖難の変を起こして南京を占領、実力で皇帝の位を奪う。3代目皇帝に即位した永楽帝は北方への関心が強く、本拠地であった北京に遷都して5回にわたってモンゴル高原に親征、北辺防備のために万里の長城を修築する。内政では内閣大学士を設置して皇帝を補佐させ、宦官を重く用いた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第157回目は「明その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
洪武帝(朱元璋)の統治は、モンゴル帝国を継承する側面と、中国の農村社会に基盤をおく側面の両面をもっていた。民戸や軍戸のように職業別の戸籍に分類するのはモンゴルの制度、土地台帳の魚鱗図冊、租税・戸籍台帳の賦役黄冊を作成したのは土地と農民を把握するためだった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第156回目は「明」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
貧農出身の朱元璋は、紅巾の乱で白蓮教徒の反乱軍に加わり頭角をあらわす。1368年に皇帝(洪武帝)に即位し、南京を都として明を建国する。その後、大都を攻撃し、元をモンゴル高原に退けた。彼は宰相を廃止し六部を皇帝の直属として、皇帝独裁体制を強化する。
官僚登用にあたっては朱子学を官学化し科挙を行整備、唐の律・令にならって明律・明令を制定する。民生を安定させることを目的に里甲制を実施し、六か条の教訓(六諭)を定め、軍制では衛所制をしいて防衛や運輸を担わせた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第155回目は「北欧」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
スカンディナヴィアとユトランド半島に残ったノルマン人が、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3王国を作る。1397年にデンマークの摂政マルグレーテが中心となりカルマル同盟が結成され、同君連合の王国が成立。一大勢力となり北海、バルト海交易をめぐりハンザ同盟と覇権を競い合った。この連合は1523年にスウェーデンが離脱するまで続いた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第154回目は「イタリアその2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
12世紀にイタリアの南部ではノルマン人によって両シチリア王国が建国され、14世紀にシチリア王国とナポリ王国に分裂する。イタリア中部にはローマを中心とした教皇領が広がり、、北部にヴェネツィア、フィレンツェなどの都市国家が分立していた。
神聖ローマ皇帝が、イタリア政策を推し進めて北イタリアに介入してくると、諸都市の内部では有力市民が皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)などの党派に分かれて抗争を繰り返し、国内統一はさらに遠いものになった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第153回目は「イタリア」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
875年にカロリング朝のイタリア王統が断絶すると、イタリア半島は有力な諸侯による王位争奪戦が繰り広げられ、混乱と分裂の時代が続いた。962年に神聖ローマ帝国が成立すると、イタリア北部は帝国の「イタリア王国」として形式的にその支配下に入る。
歴代の皇帝は、実質的に支配するため、軍事介入や人事介入を繰り返すイタリア政策を推し進めた。しかし、しばしばローマ教皇や、台頭する都市との激しい対立を引き起こし完全な支配は上手くいかなかった。
皇帝権力の不徹底に乗じて、特に11世紀以降、北・中部イタリアでは、市民が自治権を獲得したコムーネ(自治都市)が数多く成立する。ヴェツィア共和国、メディチ家が台頭するフィレンツェ共和国、そしてミラノ公国などが名高い。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第152回目は「ドイツの王権その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
1356年、神聖ローマ皇帝カール4世は金印勅書を発して皇帝選挙法を定めた。これにより、有力諸侯7名が選帝侯として皇帝選出権を握ることが明文化され、また領内における完全な裁判権や徴税権など、諸侯の独立的地位が保障された。この結果、皇帝権は制度的に制約され、ドイツにおける政治的分裂はいっそう固定化・進行することとなる。
1437年、ルクセンブルク家のジギスムント皇帝が死去すると、翌年、帝国諸侯はオーストリアのハプスブルク家出身であるフリードリヒ3世を神聖ローマ皇帝に選出した。以後、例外的な中断はあるものの、ハプスブルク家は広大な世襲領の保持と結婚政策によって皇帝選挙において優位な立場を保ち、神聖ローマ皇帝位をほぼ一貫して独占する体制を築いていく。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第151回目は「ドイツの王権その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
ドイツではオットー1世以来、歴代の国王が神聖ローマ帝国の皇帝を務め、ローマ=カトリック教会の守護者として教皇と並ぶ権威をもち続けた。しかし、国内よりもイタリア政策を優先したため、諸侯が自立化して領邦とよばれる小国家が多数生まれる。皇帝は有名無実化し、ドイツは皇帝ではなく小国家単位で集権化が進んでいく。シュタウフェン朝断絶後、実質上の皇帝不在の約20年間を大空位時代という。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第150回目は「スペイン王国の誕生」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
イベリア半島では8世紀以降、長くイスラームの支配が続いた。その始まりは、711年にウマイヤ朝がイベリア半島へ侵入し、西ゴート王国を滅ぼしたことにある。この征服によって、イベリア半島の大部分はイスラーム教徒の支配下に置かれ、以後、数世紀にわたってイスラーム勢力とキリスト教勢力が併存する地域となっていく。
これに対して、北部に残ったキリスト教徒勢力は、カスティリャ王国やアラゴン王国を中心に、失われた領土を回復しようとする動きを強めていった。この国土回復運動は、後に「レコンキスタ」と呼ばれることになる。
12世紀には、カスティリャ王国から独立したポルトガル王国も加わり、キリスト教勢力は次第に南へと進出していった。そして15世紀、カスティリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドの結婚を契機に、両王国の領国が実質的に合併され、スペイン王国が成立する。スペイン王国は1492年、イベリア半島最後のイスラーム国家であったナスル朝の都グラナダを陥落させ、ここに700年以上に及んだレコンキスタは完了した。
百年戦争は、両国に深い変化を残した。まずフランスでは、長期戦を通じて常備軍と徴税制度が整えられ、諸侯や騎士の軍事力は低下し、王権の中央集権化が進んだ。
対してイングランドでは、領土喪失により大陸政策が後退し、貴族の不満が高まり、後のバラ戦争へとつながっていく。また、弓兵(きゅうへい)の台頭や火器の普及により騎士身分の衰退が加速し、中世的な封建秩序は大きく揺らいだ。
百年戦争は両国の国家統一と絶対王政の形成を強力に推進した。さらにヨーロッパ全体において、中世から近世への転換点となった戦争だったといえる。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第149回目は「百年戦争その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
百年戦争は、終始イングランドが優勢だった。1347年頃ヨーロッパ全土でペスト(黒死病)が流行し、両国の戦力が一時的に低下し、戦争も中断を余儀なくされる。その後、フランスでは農民反乱のジャックリーの乱、イングランドではワット=タイラーの乱が発生するなど、両国ともに国内が不安定になった。
フランスが反撃にでるも膠着状態に陥る。15世紀に入りイングランドは再び攻勢に転じるが、オルレアンを解放するなどジャンヌ・ダルクの活躍により潮目が変わった。王太子シャルルはランスで戴冠してシャルル7世となり、フランス軍はカレー以外の全ての大陸イングランド領を奪還し、戦争は終結した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第148回目は「百年戦争」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
1337年から1453年にかけてイングランドとフランスで行われた争いを百年戦争という。
1328年にフランスでカペー朝が断絶しフィリップ6世が王位を継承、ヴァロア朝が始まる。彼は王権を強化し、フランス全土を国王の直接支配下に置くことを目指していた。即位後まもなく、毛織物産地のフランドル地方の支配権を強化している。ここはイングランドにとって重要な羊毛輸出先であり、経済的な結びつきが非常に強かった。しかし国王エドワード3世は、国内政治が不安定だったため対抗措置がとれなかった。
1337年にフランス王がイングランド王に対してギエンヌ地方の没収を宣言する。フランス王の家臣という立場では領土を守れないと悟ったエドワード3世は母がカペー家出身であることから、自身こそが正統なフランス王位継承者であると宣言し、戦争が始まった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第147回目は「フランスの王権」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
フランスのカペー朝は当初、王権が弱かった。しかしフィリップ2世がイングランドのジョン王と争い領土を拡大し、ルイ9世が南フランス一帯を王領に編入すると風向きが変わる。フィリップ4世が1302年に三部会を招集すると国内の結束はかたまり、教皇を屈服させるほど王権を伸長させた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第146回目は「イングランドその2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
ジョン王の子、ヘンリ3世は大憲章(マグナカルタ)を無視したため、シモン=ド=モンフォールが貴族を率いて反乱を起こす。その結果、聖職者・貴族・騎士・市民の4つの身分からなる諮問議会を王に認めさせ、これがイギリス議会の起源とされている。
続くエドワード1世が1295年に招集した議会は、のちに模範議会と呼ばれ、さらに14世紀半ば、エドワード3世の代には貴族院(上院)と庶民院(下院)の二院制をとるようになった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第145回目は「イングランド」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
1066年にフランス王の家臣、ノルマンディー公がイングランドを征服してウィリアム1世として王に即位、ノルマン朝を建てた。その後、王位継承をめぐる対立をおさめたアンジュー伯が、1154年にヘンリ2世として即位しプランタジネット朝を建てる。
歴代の王は大陸に広大な所領を有していたが、3代目のジョン王のときに大半を失う。フランス王のフィリップ2世との争いに敗れたからだ。彼は教皇インノケンティウス3世に破門されるなど失政を重ねる。戦費負担を押し付けられそうになった貴族は、聖職者・貴族の承認無しの課税禁止などを含む大憲章(マグナ=カルタ)を王に認めさせた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第144回目は「教皇権の衰退その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
教会大分裂とともに教会の堕落や腐敗を批判する運動が広がる。イギリスでは神学者のウィクリフが信仰のよりどころを聖書のみに求め教皇制度を否定した。それに共鳴したプラハ大学学長のフスは教皇から破門されながらも教会改革を推進する。
神聖ローマ皇帝の提唱でコンスタンツ公会議が開かれた。複数の教皇が並立する教会大分裂を収拾し、統一することには成功したが、同時にフスを処刑したことで、後の宗教改革へとつながる火種を残す。その後、ボヘミアではフス派の反乱(フス戦争)が続くなど、教皇権の勢いは戻らなかった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第143回目は「教皇権の衰退」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
十字軍の失敗、封建社会の衰退と王権の伸長で教皇の権威が揺らぎ始める。14世紀初頭、教皇ボニファティウス8世は聖職者への課税問題でイギリスとフランスの国王と争い、身柄を捕らえられた。間もなく釈放されるが屈辱のうちに死ぬ。これをアナーニ事件とよぶ。
その後、フランス王のフィリップ4世は教皇庁を南フランスの都市アヴィニョンに移し、教皇は監視下におかれ、教皇のバビロン捕囚と呼ばれた。約70年後に教皇がローマに戻ると、今度はアヴィニョンにフランスに支持されている教皇が立ち、両者が正統性を主張した。これを教会大分裂(大シスマ)とよび、教皇の権威は失墜し、教会の堕落・腐敗が進んだ。